その日は帰れない、と言われた。
 理事長宅に呼ばれているから。
 翌日は平日だというのに、くだらないパーティに一晩中つきあわされる、とかなり不機嫌な様子だった。
 だって、その日は――と口に出すと、なんかあったか? と真顔で返された。
 忘れてる。
 これは、絶対に忘れてる。
 その日は。
 正確に言えば、その翌日は先生の誕生日。
 きっと理事長は、先生が自分の誕生日を忘れてることをわかってて、サプライズ・パーティを企画したのだろう。
 そうやって職員で遊ぶのを、ことのほか楽しみにしているという噂を聞いたことがある。
 その楽しみを妨害されることを何よりも嫌がるとも。
 報復は、とんでもなく恐ろしいものらしい。
 それもあって、なんでもない、と言って口をつぐんだ。
 そして当日の朝。
 学校が終わったら直行するという先生に、また明日ね、と言った。
 笑って、言えた。



Third Finger



 しんと静まり返った部屋。
 誰もいない部屋。
 家の中には自分しかいない。そんなのは、慣れっこになっているはずなのに。
 なんだか落ち着かない。
 ふと気がつくと、いるはずのない人の気配を探している。
 わかっているのに。
 今日はいない。今日は帰らない。
 でも、ここは先生の家だから。どこを見ても、先生のことが頭に浮かぶ。
 たぶん、意識しすぎなんだと思う。普段だったら、こんなに先生のことを考えない。
 だけど、明日は先生の誕生日で。
 本当は。
 本当は――。
「こんなんじゃ、ダメだ」
 声に出して言って、ガタンとキッチンの椅子から立ち上がる。
 ここにいちゃダメだと思う。
 ここにいて、ずっと先生のことを考えていたら、心が弱くなる。
 そんなのはダメだ。
 誰かにすがって生きていくことなどできない。
 だから。
 上着を持って、外にと飛び出した。

 いつもの場所――俺みたいに居場所のない子供が集まるところ――にも行ってみたけれど。
 そこは穏やかで、たゆたっているみたいに、なにもかもが優しい場所だけど。
 でも、なにか物足りなくて、結局、そこを後にして、久しぶりに家に帰ることにした。
 家。
 なんだか、空々しく響く言葉。
 家、といいながら、ここが家だったことはないから。
 それでも、家は家だし。
 なんにもない自分の部屋で、布団にくるまった。
 寝ておかないと。
 少なくても、横になっておかないと。
 明日、学校に行って、寝不足だと知れたら先生に心配をかけるし。
 そう思って、目を閉じてじっとして、眠りが訪れるのを待っていたら、携帯の鳴る音がした。
 ――先生。
 着信音でわかる。慌てて、携帯を取り出した。
 通話ボタンを押すと、先生の声が聞こえてきた。
「寝てたか?」
「ううん。大丈夫。どうしたの? 夜通しパーティだって言ってたのに」
「罰ゲームで外に追い出された」
 懐かしい、とさえ感じる先生の声。
 手を振って別れたのは今日の朝なのに。
 馬鹿みたいだと思うのに。
 泣きそうになる。
「……どうかしたか?」
「なんでもない」
 そんな気配がわかったのか。
 少し心配そうに問いかける声に、大慌てで答えた。
 そして、ふと時計が目に入る。
 時計はちょうど0時を指していた。
 あ、と思った。
 ちょうど0時。
 だったら。
「先生。あのね……」
 勢いこんで言う。
 だけど。
「Happy Birthday!」
 電話越しに賑やかな声が聞こえてきた。
 驚いたような先生の声と、口々におめでとうを言う声と。
 漏れ聞こえてくる声を、携帯の電源を切って遮断した。
 たいしたことじゃない。
 唇を噛み締める。
 全然、たいしたことじゃない。
 そうやって呪文のように繰り返しても、溢れる涙は止まらず。
 なにもかもを拒絶するかのように頭から布団をかぶって丸まった。

 どのくらいそうしていたか、わからない。
 突然、家の前で車の止まる音がした。
 それから、玄関のドアをガチャガチャいわす音。
 記憶が呼び起こされる。
 乱暴に叩きつけられるドア。人の怒号。
 怖い、怖い記憶。
 また、なのだろうか。
 ちゃんと話し合って、解決したはずなのに。
 そう思っているうちに、家の中で足音が響いた。
 どんどんと近づいてくる。
 バタン、と部屋の扉が開いて、悲鳴をあげそうになる。
 でも。
「なんでこんなところにいる」
 聞こえてきたのが先生の声で、悲鳴は喉の奥に消える。
「ったく、心配させておいて、寝てるんじゃ……」
 布団を引き剥がされる。
 暗闇のなかでも、先生が少し驚いたような表情をしたのがわかった。
「泣いていたのか」
 頬に手が触れる。
「……ちが……っ、これは……これは、急に音がしたから、また借金取りの人が来たのかと思って……」
「びっくりしたのか」
 ふわりと抱きしめられる。
「悪かった」
 囁き声とともに、二、三度軽く頭を撫でられる。
「先生」
 ふっと、体から力が抜ける。
「なんでここにいるの? パーティは?」
「なんでって、お前は……。心配して捜しにきたからに決まってんだろ。急に携帯が切れて、その後繋がらなくて。家に帰ってみれば、どこを捜してもお前はいないし」
「ごめんなさい……あの……」
 そっと離れる。
 本当に心配していたのだという顔が目に入る。
 こんな表情をさせちゃいけない、と思った。
 俺のためにこんな表情をさせちゃダメだ。だから、頭の中を整理して。
「電話を切ったのは、楽しそうだったから邪魔しちゃ悪いと思って。電源は、電話を切ったときに長く押しすぎたのかも。時々、やるんだ。それと、家には、たまには帰らなくちゃって思ってて。ちょうどいい機会かと思った。ごめんなさい。心配させるとは、思ってなかった」
 笑みを浮かべる。
「本当にごめんなさい。なんでもないから、パーティに戻って? 理事長の機嫌を損ねると厄介なんでしょ?」
「お前は……」
 頬を両手で包み込まれる。なんだかもどしそうな表情をしている。
「ちゃんと本当のことを言え。そうやって、ものわかりの良い顔はするな」
「先生……?」
「自分じゃ気づいてないのか? そうやって笑う顔は、本当に笑ったときの顔とは全然違うんだよ。もっともお前、本当に笑うことなんて、滅多にないが」
 じっと、深い紫の瞳がこちらを覗き込む。
「俺は、ものわかりの良い笑顔なんていらない。だから、泣いても、怒っても、困らせてもいいから、ちゃんと話せ」
「せん……せ……」
 紫の瞳はじっとこちらを見ている。心の中を見透かそうとするかのように。
「なんでも……ないんだ。くだらないこと、だから」
 笑みを浮かべようとして失敗する。
 だって、その顔はいらないと言われたら、他にどんな表情をしていいのか、わからない。
「言ってみろ。どんなにくだらないことでも構わないから。言葉にしなきゃ何も伝わらない」
「……伝わらなくても、いい。本当に、くだらないことだから」
 頬に添えられた手を外そうと手を上げたところ、逆に腕を掴まれた。
「だが、俺は知りたい。お前が、何を考えているのか。どう感じているのか。なにがあった? なんでそんな顔をする?」
 怖いくらいに真剣な瞳。
 ずるい、と思う。
 そんな風に真剣に見つめられて、そんな風に真剣に言われたら。
 言わないでいることなんて、できない。
「――おめでとう、って言いたかっただけなんだ。誰よりも早く――一番に。誕生日、おめでとう、って。でも、言えなかった。だから、がっかりしてる。それだけ、なんだ」
 目を逸らす。
 本当に、どういう表情をしていいのかわからない。
 笑うこと以外に、どうすればいいのだろう。こんなとき。
 だって、ただそれだけのことなのに。こんな些細なことなのに。そんなことにこだわっているなんて、絶対変だから、なんでもない、ってわかってほしいだけなのに。
「それだけのことに落ち込むなんて、本当にくだらないでしょ? でも、大丈夫。本当にそれだけのことなんだから――」
「それだけのことでも、お前にとっては、大切なことだったんだろ?」
 その言葉に息を呑む。
「ちゃんと言っとけよ、そういうことは、先に。そうしたら、パーティなんかに行かねぇで、家にいたんだから」
「でも、そんなくだらない理由で、理事長からの誘いを断るわけにはいかないでしょ? 別に俺は大丈夫――」
「だから、そんな顔はするなって。それに、お前にとってはくだらないことじゃないだろう。だったら、ちゃんと主張しろ。もっと、わがままを言ってみろ。絶対、その日は外に出るな、とか。お前にはその権利があるんだから」
「先生……」
「だから、『先生』じゃなくて、三蔵、だ」
 コツン、と額が触れ合う。
「わかるか? お前の目の前にいるのは『先生』なんていう一括りにできる曖昧なものじゃなくて、三蔵という一人の人間だ。まずちゃんと、それを認めろ」
 間近で見る、綺麗な顔。
 よく見知ったもののはずなのに。
 どうしてだろう。
 なんだか、初めて見るような気がする。
「名前、呼んでみろ」
 少し厚めの唇から、低い声が響く。
 暗い部屋の中でも、外から入る微かな光に輝く金色の髪。
 日暮れ時に一瞬見られる、狭間の色を思い起こさせる紫の瞳。
 この人が――。
「――さんぞう」
 口から出たのは、まるで知らない人の名前のよう。
 だけど。
 微かに口元に浮かぶ笑みを見て思う。
 そうか、この人が三蔵なんだと。
 わかっていたことのはずなのに。
 改めて、それを認識する。
「お前の誕生日には、一番におめでとうを言ってやるよ」
 触れ合った額が離れていき、囁くような声が聞こえる。
「約束する」
 そっと、左手の薬指に唇が降りてくる。
「帰るぞ」
 そして、ふわりと抱き上げられた。
「――帰るって」
 なんだかぼうっとしていて、車に乗せられて初めて我に返る。
「家に決まってるだろ。お前の家はここじゃない。そうだろう?」
 思わず車のなかから、今出てきた家を振り仰ぐ。
 そう。
 ここが家だったことは一度もない。
 家は――。
 家だと思えるのは。
「うん。帰る」
 運転席の方を向いて。
 突然、思い出す。
「まだ、言ってなかった。三蔵、お誕生日おめでとう」
 一番には、言えなかった。
 でも、不思議だ。
 それでもいい、と今はなんの痛みもなく素直に思えた。
 その言葉を、三蔵にちゃんと伝えられるのだから。
 その言葉を、三蔵がちゃんと聞いてくれるのだから。
 自分の言葉をちゃんと受けとめてくれる――それだけで、充分じゃないか、と思った。
 心が軽くなった。
「プレゼント、何がいいか良くわかんなくて、たいしたものは用意できなかったんだけど。あ、でも、ご馳走は作るよ、今夜。三蔵が好きなもの、全部」
 クスリ、と笑う声が聞こえる。
「プレゼントはもう貰った」
「え?」
 エンジンがかかる音がする。
 その音に紛れて、聞き違いをしたのかと思ったけど。
「呼び方。元に戻すなよ?」
 言われて、何も考えずに呼んでいた名前に気づく。
 もう一度、楽しそうな笑い声がして、車が発進する。
 家に向かって――。