雨の日に少し機嫌が悪くなるのはいつものこと。
それでも出会った頃よりはまだマシで。
とはいえ、今日はそばにいてほしくなさそうだったので、そっと部屋を出た。


金色の香 記憶の欠片



軽い細かな雨。
傘をささなくても大丈夫そうに見えるのに、まるで纏わりついてくるようで、気がつくと服がしっとりと濡れていた。

悟空は空を見上げた。

空は灰色だけど、明るい。
たぶん、もうすぐ雨は止むだろう。
そうしたら、帰ろう。
熱いシャワーを浴びて、雨の匂いを消して、大好きな人の腕の中に。

脳裏に浮かぶ金色のイメージ。
その姿を鮮明に描き出そうと、悟空が目を閉じた瞬間。
微かに頬を撫でていった風に乗って、甘い香がした。

雨にも負けない強い香。
だが、それはキツイ香ではなく、優しい、でもしっかりとした香。

何だろう。
知っている感じがする。
こんな風に、優しくて、強い――。

悟空は誘われるように香が漂ってくる方に足を向けた。
何かを期待するかのように、徐々に足が速まる。

そして、道の角を曲がった途端、目に飛び込んでくる鮮やかなオレンジ色。

細かい花をつけた、見上げる程の高さの木。

不意に、悟空の口をついて何かの言葉が出てこようとした。
だが、結局、それは発せられることはなく。

悟空はただ花を見上げていた。






緩やかに、優しく流れていく時。
まるで、真綿で包まれているかのよう。
例え何か大きな衝撃があったとしても、その振動は吸収されてここまでは届かない。
何もかも退屈で。
何もかもがどうでも良く。
昨日と変わらない今日。今日と変わらない明日。
そんな風に過ぎていくのかと思っていた。
永遠の時が。

だが。

「金蝉、金蝉、金蝉っ!」

パタパタと軽やかな足音を響かせて、飛び込んできた影。
金蝉は軽く眉をしかめた。

「お前、たいした用もなく、ここには来るなと――」
「お茶の香っ!」

躊躇いもなく伸ばされる手。
満面に浮かべた笑顔。

この幼子はいつでもまっすぐで。
太陽のよう。
よくこの子供が口にするその言葉は、本当はこの子供のことを表すのではないかと、金蝉は思う。

「天ちゃんがこの間くれたお茶の香。それが咲いてる場所、ケン兄ちゃんに教えてもらった。金蝉、あれ、好きだって言ってたろ?」

ぐいぐいと掴まれた腕を引っ張られて、半ば引きずられるように金蝉は歩き出す。
執務室を出て、外にと向かう。

「ちょっと待て、悟空。どこに行くつもりだ?」
「だから。この間のお茶の香のトコ」

その答えは全然答えでなく。
金蝉は眉間の皺を深くする。
この幼子は何もかもが一直線で、興味を引いたこと以外、目に入らなくなる。

それでも、この間のお茶、というのはわかった。
天蓬が持ってきた、花の香のするお茶。
あれは確か――。

「金蝉、ここ。すっげー」

悟空の感嘆の声に、ふと目をあげると、鮮やかなオレンジ色が飛び込んできた。

「――金木犀、か」
「きんもくせい? 金色ってこと?」
「そうだな」

金蝉が答えると、嬉しそうな顔をさらに嬉しそうにして、悟空は笑った。

この笑顔。
ずっと失くすことのないように。

その願いはなぜかいつも胸に痛みを引き起こす。

「いい匂い」

柔らかな風が、辺りに花の香を振りまく。
悟空は目を閉じて、大きく深呼吸をした。
花の香を身の内に取り込むかのように。

「ね、金蝉。俺、忘れない」
目を閉じたまま、悟空が呟く。
「忘れたくないよ。この風景。この匂い」
ふっと目をあけて、悟空はまっすぐに金蝉を見つめた。
「なによりも、金蝉のことを」

その呟きはまるで祈りのようで。
透明な雫が、金色の目から零れ落ちた。
金蝉は無言のまま悟空の体を抱き寄せた。

何かを予感しているのだろうか。
このところ感じる、得体の知れない不安をこの幼子も感じているのだろうか。

「忘れたくない……」

もう一度、悟空が呟いた。
金蝉は腕に力を込めた。






「悟空」
低い、よく通る声に名前を呼ばれて、悟空は振り返った。
「さんぞ、どうして……?」
近づいてくる人影に悟空は呆然とした声をあげた。

雨はまだ降り続いている。
なのに、なぜ?

「お前が呼んだんだろうが」

呼んだ?
呼んだのだろうか。

怖いとか、寂しいとか。
いつも三蔵を無意識のうちに呼んでしまうほどの強い感情はないのに。

ただ。

胸のうちに広がる、何かわからないもの。
思い出せない。
とても大切だったはずのもの――。
この甘い香が揺さぶる、遠い昔の記憶。

ふわりと悟空は抱きしめられた。
優しい手を感じた、そのとき。
何かが、頭の中をかすっていった。
 
懐かしい面影。
だけど、それは曖昧な印象だけで。
その他のものは、捕まえようとするそばから逃げていく。

どうして。

大好きな人の腕の中にいるというのに。
どうして――?

どうして、他の人のことが頭に浮かぶのだろう。
こんな風に抱きしめてくれたことがあったと思うのだろう。

顔もおぼろげな
名前も覚えていない
優しい手をした
誰か――

金色の甘い香りが呼び起こす記憶の欠片。

「――」

声にならない声が悟空の口から漏れ、そっと伏せられた目から涙が零れ落ちた。






――ね、金蝉。
   忘れない。
   忘れたくないよ――