空腹を満たす術


「三蔵」
 パタパタと軽い足音がしたと思ったら、バタンと勢い良く扉が開いた。
「ノックをしてから開けろと言っておいたろうが」
 反射的にハリセンが振り下ろされるが、最高僧さまのご機嫌はさほど悪くないらしく、それほどの威力はない。
「ごめん。今度から気をつける」
 頭を押さえながら、こちらはご機嫌の悟空がへへっと笑う。
「ね、この間買ってもらった服。似合う?」
 くるりと回ってみせる悟空の着ているのは、明るいオレンジ色のチャイナ服。三蔵が所用で長安の町に行った折に目について買ってきたものだ。
「……猿なりに、な」
「なんだよ、それ」
 ぷぅっと悟空は頬を膨らます。
「それより、髪、ちゃんと結べてないぞ」
 けれど、三蔵にそう言われ、手近の椅子を示されて、悟空は笑顔を浮かべる。
 それから、ぽんと勢い良く椅子に座った。
「俺、三蔵に髪の毛結んでもらうの、凄く好き」
 合わせるようにと同じときに買ってきたオレンジの紐を一度解き、櫛で髪を梳いてやっていると、悟空がそんなことを言い出した。
 上から見下ろすと、満面に笑みを浮かべているのが見える。
 足をぶらぶらさせて、いつまでたっても子供ようだ。
 だが、すんなりと伸びた手足は子供のものではない。
 もちろん、歳の割には子供っぽいが、だがもう、拾ってきたばかりの頃の子供ではない。
 それは、少し大きいかと思って買ってきた服がぴったりと合っていることからもわかる。
「さんぞ?」
 いつの間にか手を止めていた三蔵を、悟空は不思議そうに見上げた。
「ふらふら動いてるんじゃねぇよ。結べないだろうが」
 大きな金色の目に、なぜか少したじろんだことを知られないように、三蔵は乱暴に悟空を前に向かせた。
 そして、髪を纏め。
 不意に目についたうなじに、息を止めた。
 ――どうかしてる。
 すぐに我に返り、三蔵は悟空の髪を結ぶ作業を再開する。
 ――こんなガキに。
 だが、なだらかな曲線を描くうなじは誘っているかのようで。
 ――本当にどうかしている。
「できたぞ」
 胸に生まれたものを否定するかのように、三蔵はきゅっと紐を結んでそう告げた。
「ありがと」
 悟空は椅子から飛び降りて礼を言うと、三蔵の腕にと纏わりついてきた。ひっぱって、外へと向かう。
「三蔵と出かけるの、久しぶりだな」
 本当に嬉しそうな表情をする悟空に、普段ならばウザいと振り解くところを、今日くらいはいいかと好きにさせる。
 ひとつには、こんな風に悟空と過ごすのが本当に久しぶりだったこともある。
 仕事に追われて、ほとんど構ってやれなかった。
 だからと言って、それがどうということではないのだが。
 淋しいと、無意識のうちに声なき声で呼ばれることはあっても、悟空は口に出しては何も言わない。言われない以上、三蔵の方から何かしようという気はない。
 だが、こんな様子を見ていると、どれだけ淋しい思いをしていたのだろうと思う。
「……肉まん食うだろ、餃子食うだろ、春巻食うだろ」
「お前がしたいことは食うことだけか」
 町についたら何をしようかと、ひとつひとつ数え上げる悟空の台詞の中身は全て食べ物のことばかりで、聞くともなしに聞いていた三蔵は、呆れたように突っ込みをいれた。
「普段、あんだけ食っといて。最近、特に量が増えたと言われたぞ」
 あの妖怪の子供のおかげで食糧庫がすぐにカラになります、と嫌味のように言われたことを思い出す。
「しょーがねぇだろ。ハラ減るんだもん」
「燃費の悪いやつ」
 その言葉にぶーぶー言う悟空を適当に受け流しつつ、寺院の門をくぐったところで、突然、三蔵は後ろから呼び止められた。
「三蔵さま」
 ピクリと悟空の肩が震える。
「申し訳ありません。三仏神さまから火急のお使者です。お戻り願えますか?」
 ぱっと、悟空が三蔵を見上げた。
 一瞬、泣きそうな顔をし、それから拗ねたような表情を浮かべた。
「ちぇ。せっかく美味しいもの、たらふく食おうと思ったのに」
 するりと悟空の手が離れていく。
 そんな悟空の様子に、三蔵は思案するような表情を浮かべ、くしゃりと悟空の髪をかきまわした。
「食いたいもん、書き出しとけ。今度、買ってきてやる」
 そういい残し、三蔵は悟空を残して、寺院へと引き返していった。

 ――別に四六時中一緒にいて欲しいわけじゃないんだけどな。
 寺院の裏山のお気に入りの場所で、悟空はそっとため息をついた。
 手を伸ばして、目につく赤い実を摘んでは口に入れる。
 甘酸っぱい味が口の中に広がる。
 が、それだけだ。
 確かに味はするのに、これは美味しい味のはずなのに。
 何も感じない。
 ただ、満たされぬ空腹感があるばかり。それは三蔵のことを考えるときにいつも感じるもので。
「……淋しいよ、三蔵」
 ポツリと小さな声がもれた。
「だったら、ちゃんと口に出して直接言え」
 と、突然、思いもかけない声がした。
「三蔵」
 振り返った悟空の目に映ったのは、三蔵法師の正装をした三蔵の姿。
「お前、ちゃんとメシは食ってるだろうに、こんなところでまだ食べてるのか」
 ふぅ、となんだかわざとらしく、ため息をつくようにして三蔵が言う。
「だから、しょーがねぇだろって。ハラ減るんだもん」
 呆れたような様子が面白くなく、いささかヤケ気味に、悟空は次々と赤い実を摘んでは口にとほおった。
「三蔵がいねぇと、すごく、ハラが減るんだもん」
「……猿だ、猿だと思っていたが。ホントに動物だな、お前。なんでも胃袋で考えるな」
「胃袋で考えているわけねーだろっ!」
 更に呆れたかのような三蔵に、悟空の機嫌も更に悪化する。
 ぶちっと赤い実を摘み取った。
「じゃあ、なんだってそんなに食ってる。食いモンは足りてるはずだぞ」
 言われて悟空は手を止めた。
 確かに寺院での食事が足りないというわけではない。
 三蔵が好きなだけ食べさせろと言っておいてくれているおかげで、嫌味は言われても食事の量を減らされたことはない。
「バカ猿」
 考え込んでしまった悟空の耳に三蔵の声が聞こえてきた。
 反射的に反応し、バカ猿って言うな、と噛みつこうとして、深い紫暗の瞳と視線があった。
「さんぞ……?」
 そこに浮かぶのは、なんだかいつもとは色で。
 悟空は戸惑ったような声をあげた。
 三蔵の手が伸びてきて、悟空の手を掴む。
 そして。
「さ、さんぞっ?!」
 パクリと、三蔵が悟空のつんだ赤い実を口に入れる。
 悟空の指ごと。
「な、な、何――?!」
 暖かい、柔らかな、濡れた感触に、悟空は慌てて手を引いた。
 舐められた手を別の手で掴み、耳まで赤くなる悟空を、どこか満足そうに三蔵はみつめた。
「甘い、な」
 口の中に残った赤い実を噛んで言う。
 それから、パクパクと、まるで酸欠を起こしたかのように口を開け閉めしている悟空を、体ごと、自分の方にと引き寄せた。
「あんな顔、してんじゃねぇよ」
「……あんな顔って、どんな顔だよ」
 よくよく考えてみれば、指を舐められただけだ。こんな風にうろたえることなど何もない。
 少し落ち着いて思考力を取り戻し、悟空は拗ねたように言う。
「無自覚か、ったく……」
 そんな悟空の様子に、三蔵は低く舌打をした。
 淋しいと泣く声に捜しにきてみれば、人恋しそうな表情を浮かべる悟空がいた。
 あんな表情をいつの間に覚えたのだろう。
 ただ淋しがっているというだけではなく。
 どこか儚げで、縋りつくような表情。
 あんな目で見つめられて、平気でいられる人間などいるのだろうか。
「あんな顔、誰にでも見せるんじゃねぇぞ」
「だから、どんな顔だって」
 先ほどからわけもわからずに振り回され、そのうえ意味のわからないことを言われ、悟空はいささか腹を立てて顔をあげた。
 文句のひとつも言ってやろうとする。
 だが。
 見上げた三蔵の顔があまりに至近距離にあり、二の句が継げられなくなる。
 こんなに間近で三蔵の顔を見ることなど、ほとんどない。
 綺麗で。
 近くで見ると一段と綺麗で。
 なんだか心臓がおかしくなりそうだ。
 悟空の頬にまた熱があがってきた。
 と、その赤い頬に三蔵の手が添えられた。
「悟空」
 耳に響く、優しい低い囁き声。
 そして。
 不意に唇に暖かさを感じた。
 ――あ、甘い。
 ふっと口の中に甘さが広がった。
 先ほどの木の実の味。
 だけど、何故だろう。もっと甘く感じる。
「……さんぞ、今の、何?」
 暖かさが離れるとともに、悟空の体から力が抜けていく。
 カクンと膝を折って、その場に座り込みそうになるのを、三蔵が手を出して支えた。
 その腕に縋りつき、悟空が呟いた。
「凄く甘かった」
「気に入ったか?」
 微かに笑みを浮かべ、三蔵がまた顔を近づけてきた。
 唇を重なる。
 触れ合った唇を通して、三蔵の方から何かが流れ込んでくるような気がした。
 甘い、暖かい、何か。
 その何かに満たされるような気がする。
「もうハラは減ってないか?」
 やがて唇は離れていき、三蔵が問いかけてきた。
「……減ってない」
 不思議なことに、あれほど続いていた空腹感が治まっていた。
「お前、淋しかったら、淋しいと口に出して言え」
 言われて、ようやく悟空は気がついた。
 空腹だったわけではなかったのだと。
 ただ淋しかったのだと。
 空虚な気持ちに、空腹であるような気になったのだと。
「まぁ、言ったところで、いつでもどうにかしてやれるわけじゃないけどな」
「……なんだよ、それ」
 三蔵の腕の中でクスクスと悟空は笑い声をたてた。
 なんだか嬉しくて。
 自分が『三蔵』で満たされたみたいで、嬉しくて。
「無駄に食うよりいいだろ」
「そうかもね」
 笑みを浮かべたまま、悟空は三蔵の着物の袂をぎゅっと握った。
 白い三蔵法師の正装。
「ね、さっきの、もう一回して」
 三蔵を見つめる、大きな金色の瞳。
「だって、また出かけちゃうんだろ。淋しい、よ――」
 揺らめくような金色の瞳。
 これが無意識だというのだから。
 ――質わりぃ。
 誘われるように、三蔵は悟空の唇にキスを落とす。
 何度も繰り返し、悟空が完全に身を委ねてくる頃になって、ようやく唇を離した。
「お前、淋しいからって、誰にでもこんなこと、許すんじゃねぇぞ」
 急速に膨れあっていく独占欲。
 そんなものが自分にあるとは思っていなかった。
 あっても邪魔なだけだと思っていた。
「何、それ。やだよ。三蔵以外とこんなことするなんてヤダ」
 眉を寄せて、唇を尖らせて。
 むっとした顔で悟空が見上げてくる。
 その顔を見ていると、こういうのも悪くないと思う。
「帰ってきたら、またしてね」
 ぽふっと三蔵の胸に顔を埋めて、囁くように悟空が言う。
 きっとまた淋しくなっているから。
 何度も何度も、満たし直して欲しい。
 何度でも。
「心配しなくても、望むだけやるよ」
 好きなだけ何度でも。
 
 見つめあう二人の影がまた近づいていた。

 それは、空腹を満たす術。
 淋しさを埋めるひとつの方法――。