目と目が合った瞬間、世界が止まった――。

 そんなフレーズをどこかで聞いたことがある。
 だけどまさか本当にそんなことになるなんて、誰が思うだろう。


A Moment in the Eternity



 ――すべてが動きを止めた空間。


 人も、動物も、何もかも。
 まるで蝋人形のように固まったまま、動かない。
 噴水も、風に散る桜も。
 まるでビデオの一時停止を押したよう。
 その一瞬で凍りついたように、飛び散る水も、漂う花びらも宙に浮いたまま動きを止めていた。

 立体的な写真の中に紛れてしまったかみたいだ。
 動いているのは、俺と俺の横に立っている人だけ。
 いや、もうひとつ。

 カチリと音がした。

 近くの公園の時計。
 普段なら聞こえるはずのない微かな音をたてて、時計の針が『逆さ』に進んだ。

 それを見て、意を決して隣に立つ人に話しかけた。

「あの……。名前、教えてください。俺、悟空って言います」
「三蔵」

 素っ気ない答え。

 何もかも全てが動きを止めてしまったこの現象に驚いている、というわけではなさそうだ。
 呆然と立ち尽くしている、というのではなく、無表情に、なんだか超然とした感じでただ立っている。
 この人なら、例え世界が動きを止めようが、自分のペースで自分のすべきことをやっていくだろう。そんな感じを受ける。

「何だ?」

 じっと見ていたのが気に入らなかったのだろうか。
 微かに眉間に皺が寄った。
 不機嫌そうな表情。
 だけど、綺麗――。

 本当に、綺麗。

「何だ? 言いたいことがあるなら、口に出して言え」

 更に深まる眉間の皺。
 こんな不機嫌な表情まで綺麗なんて、この人は本当に綺麗なんだ。

 と言っても、表面的なものだけでなく。
 この人の纏う空気が――。

「お前なぁ……」


 焦れたように言うのを、遮るように告げた。



「キス――していいですか?」






◇  ◆  ◇



 間があいた。



 ――固まっちゃったかも?

 相変わらず無表情のままだけど、動揺しているのがわかる。
 そんな様子は微塵も見せていないけど、でも、わかる。

 まぁ、無理もない。
 いきなりキス、なんて、ね。
 でも。

「あの、突然でごめんなさい。でも、たぶん時間が限られてるし……」

 ちらりと時計に目をやる。

「それに旅の恥は掻き捨てって言うし――あ、別に今は旅をしてるっていうわけじゃないけど……」

 しどろもどろに言い募る。

 と、予告もなしに、腕を掴まれた。
 そのまま無言で公園の中へと連れて行かれる。
 茂みの陰で足が止まった。

「あの……」
「往来の真ん中で、というわけもいかないだろう。ま、こんな状態ではあんまり変わらないが、たぶんお前は嫌だろう」
「えぇっと……」

 それって――?

 考える間もなく、いきなり綺麗な顔が近づいてきた。


 あ、柔らか――。

 最初にそう思い、あとは。


 何もわからなくなった。





◇  ◆  ◇



「ひでぇ、よ……さんぞ……」

 腕のなかに包まれているのを、心地よく感じながらも、どうしても言っておかねばと文句を言う。
 だけど、声が喉にひっかかってうまくでない。
 散々、わけのわからない声をあげていたから?
 それと、名前。
 三蔵。
 何度も呼んで、もう馴染んでしまった。

「キスしていいか聞いただけだったのに」
「ちゃんとしてやっただろう」

 あ、と思う間もなく唇を塞がれる。
 覚えたばかりの舌を絡めるキス。
 頭のなかが甘く痺れていく。

「さん……ぞ……」

 唇をずらすたびに、名前を呼ぶ。
 そんなことをしてるとうまく息ができなくて、苦しくなることはわかっているのに、どうしても呼んでしまう。

 その名を。
 その存在を。

 刻みつけておきたいから。

「悟空」

 やがて唇が離れ、抱きしめられた。

 この暖かい腕。
 低く響く声。

 ずっと、このままで――。


 だけど。

 逆さに動いていた時計の長針と短針が合わさった。
 タイムリミット。
 時間切れ。

 鐘の音が響く。
 
 12時を告げる鐘。
 終わりを告げる鐘。


「三蔵のせいじゃないから」

 音が終わらないうちに、急いで言う。

「俺が悪いんだから。会えて――会えて、本当に良かった」
「悟空――」

 強く抱きしめられる。
 
 でも、離れていく。
 戻っていく。

 あの時に。


 初めて会った、あの瞬間に――。





◇  ◆  ◇



 急いでいたのだ。たぶん、お互いに。
 走っているうちに、先の横断歩道で点滅していた信号が赤になったのがわかった。
 でも、そのまま突っ切った。
 変わったばかりだったから大丈夫と、周囲をよく見ずに。

 辺りを切り裂くような急ブレーキの音。
 振り向いたその先に、迫ってくる車。

 不意に運転している人と目が合った。


 綺麗――。


 切迫した状況で、浮かんだ言葉はそれ。
 ただそれだけ。


 そして、世界が暗転した。





◇  ◆  ◇



 暗い。
 暗い闇の中。

 こおいうのが死後の世界っていうのだろうか。

 暗くて、寒い。

 自分で腕を抱きかかえる。
 さっきまで。
 ついさっきまで、あの暖かい腕に抱かれていたのに。

 あれは。
 神様がくれた最後のプレゼント、みたいなものだろうか。

 あんな一瞬で、人を好きなるとは思わなかった。
 あんな一瞬で、恋に落ちるとは思わなかった。
 目と目が合った。
 ただそれだけ。


 ――その一瞬を閉じ込めた。



「三蔵」

 ここは暗くて寒い。
 そして寂しい。

「三蔵」

 会いたいよ。
 もう一度、会いたい。

「三蔵」

 声に出して呼ぶ。
 何度も。
 何度も。繰り返し。名前だけを。

「三蔵」

 そうしているうちに、この想いだけが残って俺は消えるのだろうか。



 けれども。

 不意に一筋の光がさした。

「呼んでばかりいねぇで、自分で来い」

 声が聞こえた。
 今、一番聞きたい声が。

 無意識のうちに丸めていた手足を解く。
 立ち上がり。

 声のした方へ。
 光の方へ。

 駆け出した。

 闇が薄れていく。
 どんどん明るくなっていく。


 溢れる光のもと。


 そこにいるのは。

「三蔵っ!」

 手を伸ばした。





◇  ◆  ◇



「忘れ物はないか?」
「うん、大丈夫」

 ざっと病室を見回して答える。
 車とぶつかって、運ばれた先の病院で奇跡の生還をとげた後、事後の経過も良好で、今日、ついに退院の日を迎えた。
 
「三蔵」

 にへら、と笑って荷物を持っていない方の手を差し出す。
 手を見つめ、三蔵が微かに額に皺を寄せた。
 だけど。
 ちゃんと掴み返してくれる。

「へへへ」

 嬉しくて、更に顔が緩む。

 この病室で目を覚ましたとき、叫んだつもりだったけど、声は出ていなくて。
 差し出した手も震えているだけだった。
 でも、三蔵が握りしめてくれた。
 戻ってきたんだ、と思った。
 三蔵のそばに。

「馬鹿みたいに、にやついてないで、行くぞ」
「……馬鹿じゃねぇもん」

 手を引かれて歩き出す。



 一瞬を永遠にするために。