夜中にふと目が覚めた。
 ぼんやりとした視線のさきに、穏やかな寝顔。

 ふいにそれが誰なのかを認識し、同時に意識が覚醒した。

 三蔵――。

 なんとなく息をとめて、その顔をうかがう。
 通った鼻筋。長いまつげ。白い肌。眠っていても綺麗な人。

 起こさないよう、体のうえに回された腕をそっと持ち上げて、暖かな抱擁から抜け出す。
 音をたてないよう、そろそろと寝台から降りて。
 まだ暗い夜のなかに滑り出した。


夜に囁く声


 ここは西に向かう途中の宿屋。
 町に入るときに、三蔵が『三蔵法師』だとばれて、高級旅館の庭つきの離れにと案内された。

 広い庭には、ところどころで、赤々とかがり火が燃えていた。
 闇に沈むところと、明るく照らし出されるところと。
 かがり火は不思議なコントラストを作り出し、庭は幻想的な雰囲気に包まれていた。

 ゆっくりと、かがり火に向かう。
 パチパチと音をたて、燃えさかる炎。
 揺らめく不規則な動きをじっと目で追う。まるで踊っているかのよう。
 見つめているうちに、不意に、連想ゲームのように、ひとりの男の顔が眼に浮かんだ。
 炎――焔。

 炎は、こんなにも、明るく周囲を照らすのに――。
 どうしてだろう。
 同じ名を持つあの男には、なぜか光よりも影を感じる。

「夜の散歩か、孫悟空」

 と、突然、声が響いた。

「焔」

 月のない夜。
 かがり火の周囲以外は、墨を流したかのように暗い。
 そして、直前まで炎を見ていた目は、あまり闇には慣れていない。
 だが、気配で声をかけてきた人間のことはわかる。
 居場所も、その正体も。

 人間――いや、正確にいうならば、神。
 強大な力を持つ――敵。

「なにしにきたんだ?」

 闇にむかって声をかける。
 焔からは闘気は感じられない。
 それに安堵する。
 いまは、闘う気はしない。
 こんな暖かで、穏やかな夜には。

「おまえと同じく、夜のそぞろ歩きだ」

 闇の中から浮かび上がるかのように、焔が、かがり火の届くところに、姿を現した。

「こんなところまでか」
「こんな風に暖かで穏やかな夜には、たまにはいいだろう」
「……それ、理由になってねぇよ」

 焔の顔に微かに笑みが浮かぶ。

「ならば、お前に呼ばれたというのは? 俺のことを考えていただろう」

 なにもかも見透かしているんだぞという言葉に、少し眉をひそめる。
 答えずにいたら、焔が今度は声をたてて笑った。

「お前のことなら、わかるよ。孫悟空。お前と俺は似たもの同士だからな」

 互い違いの目に、炎と俺の姿が映っている。
 あたかも俺自身が、そこにいるかのように。
 そこに――焔のなかに。

 初めて会ったときから、その目に宿る孤独の光に惹きつけられた。
 その光には覚えがあったから。
 同じ孤独を抱えていたことがあったから。
 だから――。

「俺のもとに来い、孫悟空。お前の孤独も、お前の痛みも、同じような経験をしたものにしかわかるまい」

 静かな言葉が、うちにと染み込んでいく。
 それは嘘偽りのない言葉だから。
 人はどうして、わかってもらえる、ということに弱いのだろう。
 心が傾くのがわかる。

 だけど。

「夜中にうるせぇぞ」

 別の声が響いた。

「金蝉」

 焔の呼びかけを無視して、三蔵はぐいっと俺を自分の方にと引き寄せた。
 あたかも、傾いた心を戻すかのように。

「ったく、湯たんぽが勝手に抜け出してるんじゃねぇよ」

 素直じゃないその言葉に、思わず笑みがもれる。

「もう春も深い。湯たんぽもいらないだろう。素直じゃないな。奪われるのが嫌ならば、素直にそういえばいいものを」

 三蔵は焔に鋭い視線を投げつけたが、言葉に出してはなにもいわなかった。

「孫悟空、お前もな、一度、そちら側を選んだからといって、それからずっとそちら側を選び続けなくてはならないということはないんだぞ」

 だが、この言葉に、三蔵は銃を取り出すと、焔にと狙いをつけた。

「ごちゃごちゃと本当にうるせぇんだよ」

 その台詞に、焔が楽しげな表情を浮かべた。

「まったく、本当に素直じゃないな。だが、今日のところは引いておこう。孫悟空の機嫌を損ねて、手に入るものも入らなくなったらつまらないからな」

 言葉とともに、不意に焔の姿が消え失せた。
 どこにもその気配が感じられなくなる。
 あとに残るのは、しんと静まり返った穏やかな春の夜。

 しばらく、俺も三蔵も、口をきかず静かに立ちつくしていた。
 柔らかく背中にまわされた手は、簡単に振りほどけそうなのに、なぜだろう。
 いざ、はずそうとしたら、容易にははずせそうにない気がした。

「三蔵。俺が選ぶのはいつだって、ひとつだよ」

 静けさを打ち破るようにささやく。

「知っている」

 そういいながらも、背中に回っている手に力が入って、さらに懐近くにと抱き込まれた。

 本当に。
 選ぶのは、ただひとつの手なのに。

 それなのに。

 ――なにを不安に思うのだろう。



 何度やり直す機会があったとしても。
 俺のことをわかってくれて、優しく包み込んでくれるといっても。
 それでも、選ぶのはこの人だ。
 たとえそばにいることで、どんなに傷ついたとしても。

 だから。


 俺の聲は、あなたにしか届かない。



 三蔵。

 いつでも呼び続けるのは、その名だけ。

 三蔵。

 それだけを繰り返す。

 三蔵――。


 そして、応えるかのように、三蔵の手に力が入った。



 かたく抱きしめられた腕のなか、肩越しに揺らめく炎を見つめながら、ひっそりと笑みを浮かべた。