夜中に、ひどく煩い聲に呼ばれた。
 他人には聞こえぬ、頭のなかに直接響く聲。
 最初は無視しようと思ったが、あまりにも煩く呼ぶので、仕方なしに寝床を抜け出した。



空に浮かぶ月だけが




 月の光に照らされて。
 聲の主は、ただ静かに空を見上げていた。
 淡く青い光に浮かぶ影。
 憂いを帯びた表情。
 普段の騒々しさは影を潜め、まるで彫刻家が丹精こめて作り上げた彫像のように、ひっそりと佇んでいた。

 だが。

 頭の中をめぐる聲は途切れることなく続いている。

「……っの、バカ猿っ」

 儚い幻を払うかのように、ハリセンを振り下ろした。
 それは、あまりにもこの猿には似合わぬもの。

「ってぇなっ」

 頭を押さえ、すかさず小猿が噛みついてくる。

「よし」
「よし、じゃねぇだろ。ってか、どこ行くんだよ」

 くるりと背を向けると、声が追ってきた。

「寝に帰るに決まってんだろ。もう呼ぶなよ」

 そう釘をさすが。
 言ってるそばから、また聲が聞こえてくる。
 黙殺して、歩を進める。だが。

「……三蔵」

 今度は、ちゃんと音になって呼ばれた。
 振り返ると、悟空はひどく心許なさそうな表情を浮かべていた。

「三蔵」

 もう一度、名前を呼び、近づいてくる。
 歩みはだんだんと速くなり、最後は身を投げ出すように、トン、と体ごとぶつかってきた。

「行かないで……。気持ち、悪いんだ」

 すがりつくような目を向けられる。

「お前のそれは食いすぎだろ」

 素っ気無く言ってやると、悟空は目を見開き、それから拗ねたような表情を見せた。

「……もう。ずりぃ、三蔵は」
「ずるいもなにも。事実だろう」
「そうやって、誤魔化そうとする」
「別に誤魔化していない。お前の感情だ。お前が自分でなんとかするしかないだろう」
「それは、そうだけど、さ」

 ぽふん、と胸元に顔を埋められる。

「三蔵は嫌じゃねぇ? 俺が三蔵以外の人のことを考えてること。自分のことだけ考えて欲しいって思わねぇ?」
「ガキ」
「むぅ。どうせ、ガキだよ。でも俺は三蔵のことだけ考えて、三蔵に独占されていたい。三蔵に俺のことだけを考えていて欲しいから」
「そんなふうに交換条件みたいに、人の感情を操れるわけねぇだろう」
「……知ってる。しかも、自分の感情だって自分でどうしようもないことも」

 ぎゅっと、背中に回された手に力が入る。

「焔は俺に斃されるのが望みだった。それは、わかった。わかったけど……気持ち悪い。もしかしたら、ってどうしても考えてしまう。もしかしたら、もっと違う結末があったかもしれない。でも、何よりも三蔵が大切だから、俺のしたことは間違ってない……だけど……っ」

 顔をあげる。
 月明かりの中、揺らめく金色の瞳。
 この瞳を前に、冷静でいられる人間などいるはずがない。

「それは、お前が自分で納得しなくちゃならない。さもなければ、ずっとその傷を抱えて生きていくか」

 そっと手を伸ばして、その頬に触れる。
 滑らかな感触が指先に伝わる。

「一時的になら、忘れさせてやることはできるかな」

 大きな金色の瞳がますます大きくなった。
 
「うん……。それでもいい……」

 今までとはまるで違う、匂いたつような笑みを仄かに浮かべ、吐息まじりに悟空は囁いた。



 四肢を絡め、なにもかもを押し流す熱に身を委ね、高みにと昇りつめたあと。
 意識を手放して眠る悟空の、大地色の髪に指を滑らせた。

 焔。
 これが、望みだったのだろうか。
 これで、満足だろうか。

 恐らくこの子供は、その存在を一生忘れることはないだろう。


 ――焔。

 だが、俺は。


「ん……」

 微かに、悟空が身動ぎをする。

「大丈夫だ。寝てろ」

 囁くと、安心したように体から力が抜け、やがて寝息が聞こえてきた。
 もう一度、大地色の髪を指に絡める。


 ――だが、俺は。


 髪の一房に唇を寄せる。


 俺が消えるときには、なにひとつ傷などつかぬといい。
 なにひとつ、覚えている必要はない。

 すべて忘れてしまえばいい。

 それはもう意味のないものなのだから――。


 人の心は、他人にはどうすることもできない。
 そう口にしながらも希む、愚かな感情。
 矛盾する心。

 俺もたいがい――

「ダッセェ……」

 呟いて、中天の月を見上げた。