Kiss Me Please
待ち合わせ場所に、とくに急ぐでもなく近づいてきた影。手を振ると気づき、少し驚いたような表情が浮かんだ。
「早かったな」
「うん。用事が早く終わったから」
にこにこと笑いかけると、今度は「なんだ?」と、もの問いたげな表情が浮かんだ。
「外で待ち合わせるのっていいな、って思って」
本当にデート、って感じがする。
「そうか? 一緒に出てきたほうが楽だぞ。待ってる間、ウザイだろうからな」
だけど年下の恋人は、そんな感慨に気づきもせずに、歩き出しながら素っ気無く言う。
ま、無理もないんだけど。
だって、綺麗だから。
整っている、というだけでは物足りないんじゃないかと思うくらいの綺麗な顔。今はまだ、やっと子供を抜け出して大人になろうとしている時期だけに、とても繊細な感じを受ける。だれだって思わず視線を送ってしまうだろう。でもって、ひとり佇んでいるのを見れば余計に。遠くから見つめたり、ちょっと度胸のある人ならば話しかけたりもしたくなる。
この恋人――そんな子供らしさも少し残るような少年を、『恋人』と呼ぶのもどうかと思うのだが、好きになっちゃったものは仕方ないと思う――は、小さい頃から少し人嫌いなところがあるから、それはとても煩わしいことだと思う。そうでなくても、一挙手一投足に視線が集まれば、普通の人だっていい加減嫌にもなるだろうし。
「……江流、背ぇ伸びた?」
そんなことを考えつつ横顔を見ているうちに、ふと気がついた。江流が受験生だったから、最近ずっと家の中で勉強で、こんな風に出かけることなんてなかったから全然気がつかなかった。目線が少し見上げるくらいになってる。
「まだまだ伸びるぞ」
なぜか勝ち誇ったように笑う顔に、なんだかむっとする。
「なに、むくれてるんだか。それよりも、合格祝いなんだろ? どこに連れて行ってくれるつもりなんだ?」
「あ、もうちょっと先。最近できた中華屋さんなんだけど」
ちょっと前に、江流の第一志望の高校の合格発表があった。まったく心配してなかったが、やっぱり当然のごとく合格していた。
名目だけだったとはいえ、江流の家庭教師をしていたので、ご褒美になにが欲しいかきいたところ、どこか美味いところでメシ、という答えが返ってきた。
なにか物をあげるつもりだったんでちょっと驚いたが、重ねて問いかけてもそれでいいと言われた。
「な、本当に良かったのか、これで?」
「あぁ。ちょうど今日は父さんもいないしな。メシ作る手間が省けた」
「そんな理由かよ」
「別にいいだろ、理由はどうだって。それよりメシの前に本屋に寄っていいか?」
「うん。まだちょっと早いしね。あ、そうだ。だったら、駅前のビルにしようよ。この間リニューアルオープンしたばっかだし、なかのぞいてみたいと思ってたんだ」
そういうと、自然に江流の足が駅前にと向いた。
それを見て、なんだか嬉しくなる。
えへへ、と笑みを浮かべてその後を追った。
江流とは5つ違いで、家が隣同士の幼馴染だった。それこそ江流が赤ちゃんのときからの付き合いだ。
最初に、江流と会った日のこともよく覚えている。
隣のおばさんが赤ちゃんと帰ってくるっていうのを聞いて、家の前で待ち構えていたのだ。
その頃、俺はおばさんのことが大好きで、親が呆れるくらい隣に入り浸っていた。江流と同じく金色の髪をした、凄く綺麗でどこか儚げで優しい女性だった。
これから生まれてくるという赤ちゃんの話もたくさんした。大きなお腹を触らせてもらったり、中にいるという赤ちゃんに話しかけたりもした。
だから、少し前に入院したおばさんと赤ちゃんが帰ってくるとのを聞いて、待ちきれずに外で待っていたのだ。
その日は朝から曇っていたが、おばさんがタクシーから降りてきたとき、ちょうど光が射してきた。腕に抱かれた赤ちゃんの髪が光に当たってキラキラと輝いた。
今から思うとあれは髪というより産毛だったのかもしれないけれど。
それに帽子かなにか被っていたと思うから、そんなにキラキラじゃなかったかもしれなくて、俺のイメージの中でのことかもしれないけれど。
でも、そのときに「江流=キラキラ」という図式は確定したのだと思う。
なんかぼーっと見とれてたら、おばさんがにっこりと笑って小さく手招きをした。
とことことそばに寄ると、かがんで赤ちゃんをよく見せてくれた。
「江流よ。よろしくね、悟空ちゃん」
柔らかなおばさんの声にしっかりと頷く。と、それまで眠っていたのだろう。目を閉じていた赤ちゃんの目蓋がゆっくりとあがっていった。
現れたのは綺麗な菫色。
ゆっくりとこちらを向いて、そして。
笑ったような気がした。
生まれたばかりの赤ちゃんが笑うはずはない、と知ったのはもっとずっと後でだったけど。
でも、やっぱり笑ったんだ、って今でも思っている。
それからしばらくして、儚いイメージそのままにおばさんは亡くなった。おじさんは結構忙しくて、江流はウチに預けられることが多くなった。もともとウチの母親は子供好きだったし、江流は俺に一番懐いていたからだ。小さい頃の江流は自分の家にいるよりも、ウチにいる時間のが長かったと思う。
でも、それも俺が高校に入るころには少しずつ縁遠くなっていった。
もう江流も一人で留守番ができるようになっていたし、俺も高校に入ってから交友関係が広がって、江流ばかり相手にしてあげられなくなっていたからだ。
そして俺が大学に入る頃には、顔を合わせれば挨拶はするけれど、ただそれだけの普通のお隣さんになっていた。
それが崩れたのは、つい最近。
相変わらず忙しい人で、会ったのは数か月ぶりかもしれない、という隣のおじさんから、中学3年になった江流の勉強を見て欲しいと頼まれたのだ。
勉強を見る、と言っても江流の成績は伝え聞いていた。家庭教師なんて必要ないんじゃないかと思ったけど、一人でやるよりも見てくれる人がいたほうが集中してできると言うし、基本的に俺の都合の良いときで構わないからと言われて、気軽に引き受けた。
久しぶりにちゃんと話をした江流は、まだ子供らしさは残っていたけれど、知っていた頃とは別人じゃないかと思うくらいに大人びて見えた。
そう思ったとき、一瞬、ドキンと心臓が跳ねた。
それでも最初は普通だったと思う。
鉛筆を握る指に、頬に影を落とすまつげに、なんだか胸の辺りがざわつくような感じを受けてはいたけれど。
それが普通でなくなったのは、夏、花火を見たときだ。
家の近くの川原では、毎年夏になると花火大会が開かれていた。
花火は、全部をちゃんととはいかないけれど、家からも見えなくはなかった。
だから勉強中に花火の音が聞こえてきたときに、少しは息抜きをした方がいいよ、と言って花火を見ることにした。
部屋の明かりを消したのは、よく見えるように、というだけで他意があったわけではなかった。
だが。
花火があがるたびに、暗闇に浮かぶ江流の姿。
それは凄く綺麗で。
思わず息を呑んだ。
そして不意に――本当に唐突に、江流が好きだと思った。
思ってから慌てた。
だって、俺も男だし、江流も男だし。
それに最近ちょっと縁遠くなっていたとはいえ、小さい頃から呆れるくらい知っている江流に対して、いったいなんだって、いきなりそんな気持ちになったんだろう、と思って。
きっかけとか、理由とかは今でもわからない。
もしかしたら最初から好きだったのかも。赤ちゃんの頃から――って、それも変な話かも。
ま、そんなものはどうでもいい話だ。今も、自分の気持ちに気づいたそのときも。
そのときに問題だったのは、一度気づいてしまった気持ちをなかったことにはできない、ということだった。といって、それを告げることもできない。
こんなの。いい迷惑だと思われるだけだろう。
だから、少し距離を置くことにした。
おじさんには、大学の勉強が忙しくなったから、と言って代わりの人を探すように頼んだ。江流には――なにも言えなかった。
会えば、悟られてしまうかもしれない。
すごく勘がいいから。
そうやって避けていたら、ある日、江流が家の前で待っていた。
いつになく怖い顔をしていた。有無も言えぬまま、江流の家の中に引っ張り込まれた。
そして、なぜ避ける、と聞かれた。
ひどく傷ついたような目をしていた。
その表情に、もう隠しておくことはできなくなった。
こんな気持ちを告げれば、絶対に嫌われる。でも、傷ついた表情をされるよりも、何倍もマシだと思った。
だから、覚悟を決めて告げた言葉だったのに。
返ってきたのは、ぶっきらぼうな、でも拒絶ではない言葉。
顔をあげると、少し染まった頬が見えた。
驚いた。
ただ、ただ驚いた。
そして俺たちの関係は、幼馴染から恋人にと進んだ。
本屋に寄って、いろいろと見て回って、ご飯を食べて帰ってくると、結構遅い時間になっていた。
「じゃあね」
手を振って、自分の家に入っていこうとしたら、呼び止められた。
「今日の礼に、茶ぐらい淹れる」
で、そう言われた。
なんだか心臓が早鐘を打ち出した。
「うん……」
囁くように頷いて、江流の家の中に入っていく。
だれもいない家はしんと静まりかえっていた。
居間に落ち着くと、台所でお湯を沸かす音が聞こえてきた。
「おじさん、今度はどこ?」
「シンガポールかどっか。今回のは4、5日で帰るっていってたが」
「たいへんだね」
「いつものころだろ」
居間と台所で、そんな他愛のない会話をしているうちにお湯が沸いて、お茶と一緒に江流が居間に入ってきた。
「ありがと」
礼を言って受け取る。
そして、話すのは、またいつもどおりの他愛のない会話。
早鐘を打っていた心臓が静まっていく。
というか、気分が沈んでいく。
別にこの雰囲気が嫌なわけではない。むしろ心地いい。
でも――。
ため息が出そうになる。
なにひとつ変わらないことに。
そう。
俺が告白した後も。
俺たちの関係にはなにひとつ変わったことは起きなかった。恋人同士になったからといって、甘い雰囲気が漂うってわけでもなかった。
もともと江流は受験生だったから、告白した後でそんな雰囲気になるわけにはいかない、と自分を戒めてもみたりしたんだけど。
そんな必要は全然なかった。
今まで通り。普通の幼馴染と変わらない。今日だって一緒に出かけても、手ひとつ握らないし。
これじゃ、デートだなんて言えない。
わかってる。
江流は、もうすぐ卒業するといってもまだ中学生なんだし、ゆっくり、焦らずに、育てていけばいい感情だってことは。
でも。
――キス、してほしい。
そう思うのは、良くないことなんだろうか。
「悟空?」
と、訝しげな声が聞こえてきた。
どうやら本当にため息をついてしまったらしい。
「ごめん。なんでもない」
笑ってごまかそうとして、普段どおりの江流の顔が目に入った。それは、小さい時から全然変わらない表情で。
ふと、あの告白自体、江流にとってはそんなに意味のあるものではなかったのではないかという考えが頭に浮かんだ。
小さい頃から続いてきたこの関係を変えるような言葉ではなかったのかも。
よくよく考えてみれば、拒絶の言葉はなかったけれど、でも、だからといって同じものを返してくれるとは限らないのだ。
胸の辺りが急速に冷えていった。
どうしてこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。
考えれば、すぐわかるだろうに。
だから、江流の態度は変わらなかった。
「馬鹿、みてぇ……」
思わず呟く。
一人で早合点して、恋人だなんて浮かれていたなんて。
「そろそろ行くね。もう遅いし」
立ち上がり、何気なさを装い足早に玄関に向かおうとした。
ちょっとダメだと思った。目の奥が痛くなってくる。
だって、こんなの――。
「悟空」
だが、腕をとられた。引き寄せられた。
そして。
唇に自分とは違う体温を感じた。
驚く。
驚いて、目を見開く。が、何も見えない。近すぎて。
しばらくしてようやく江流の顔がちゃんと見えるようになった。それは、これ以上ないくらいに近づいていた江流が少し離れたから。
そう認識はするけれど、頭の中がパニックでなにがなんだかわからない。
だって、江流は。
江流は――なんとも思っていなかったわけではない……?
さっき考えたのとは、真逆の考えが浮かんでくる。
ぐるぐると回る頭に、視界までぐるぐると回りそうだ。
と、その定まらぬ視界に、ゆっくりとまた江流が近づいてくるのが映った。
「目ぐらい閉じろよ」
苦笑しているかのような声が響く。なにも考えず、言われたままに目を閉じた。
ふっ、と唇に暖かな吐息がかかる。
そして――。
「信じ……らんねぇ」
体に力が入らない。というか、体中が痛い。
ただキスをしてほしかっただけなのに。
なんだって、こんなことになっているんだろう。
ズキズキと、特に痛む下半身に顔をしかめる。
「大丈夫か?」
気遣うような言葉を言いながらも、隣で江流がクスクスと笑う。
「大丈夫じゃない。いきなり、あんなめちゃくちゃして」
憮然と言ったら、江流は笑いを収めた。
「良くはなかったか?」
で、結構真剣な表情でそう問いかけてきた。
「よ、よ、良いとか良くないとか、そういうことじゃなくてっ」
そんな言葉を口にするのは、かなり恥かしくて声がうわずってしまう。
「こんなこと、早すぎる」
そして耳まで赤くなりつつも言ったのに、江流はふぅっとひとつため息をついた。
「良くなかったわけじゃないんなら、別にいいじゃないか。遅かれ、早かれってやつだ」
「だから、そういう問題じゃないって」
なんか寝転がったまま言うのも説得力がないような気がして、起き上がろうとするがうまくできない。
もうひとつため息をついて、江流が手を差し出してきた。
「しょーがねぇだろ。だいたいずっと我慢させられてきたんだぞ。キスひとつですむかよ」
起こしてくれつつもそんなことを言う。
「我慢って」
「どうせ、受験が終わるまでは、とか考えていたんだろ?」
「な……っ」
絶句する。どうしてわかるんだろう。
「昔から、お前の考えそうなことはお見通し」
唇にキスがひとつ。
「キス、してほしかったんだろ?」
その言葉に、赤い頬にさらに熱が宿る。
と、またキスが降ってきた。
「違うか?」
それから、覗きこまれるように見つめられて。
「そりゃ……」
もごもごと口の中で言うと、綺麗な顔が三度近づいてきた。
軽くついばむように触れられてから、しっとりと包まれるようにキスされる。
今度のは深いキス。
忍び込んできた舌が、探るように口内を動く。
さっきまで早いとかなんとか言っていた言葉は全部きれいさっぱり消えてなくなる。
ただそのキスに酔わされる。
だけど、ゆっくりとただ探るだけの舌に、じれったくなって自分から舌を絡めると、するりと逃げられた。追いかけると強く唇を吸われた。くちゅ、という水音が響き、今度はいたたまれなくなって逃げようとするけど、さらに深く唇が重なってきた。
「……なんで、こんなにうまいんだよ」
唇が離れていくと、くったりという感じで江流にもたれかかってしまう。
唇から熱が伝わって、内側から溶かされていく感じがする。
「誰と比べてる」
なのに、不機嫌な声に、甘いキスの余韻は破られる。
見上げると、眉間に皺を寄せた顔。
その表情に、江流もそんなに余裕があるわけじゃないとわかる。わかって安心する。
クスリと笑うと、ますます眉間の皺が深くなった。
「別にだれとも比べてないよ」
そっと、今度は自分から軽くキスを送る。
と。
「ちょ……っ、江流っ、なにを……!」
背中に回っていた手が、するりと下りてくる。
「なにって、ひとつしかないと思うが」
「無理っ。も、無理だってっ」
さっきので、体が悲鳴をあげてるのに。
「お前が煽るのがいけないんだろ」
「煽って……っ」
ない。
その言葉は、重なってきた唇に遮られた。
初めてのキスは、初めからしてタイヘンなことになったけど。
でも。
それはすごく、すごく――。
幸せなことだった。
だから。
いつでも望むときにキスをして。
そっと目を閉じて思った。