sacrifice


「逃げてっ!」
「ば……っ」

とめる暇もなかった。
巨大な影に向かって、駆け出していく小さな姿。
嵐に弄ばれる木の葉のように、巨大な力に翻弄される姿を目の当たりにしながら、三蔵は真言を唱える。
胸のあたりに湧き立つざわめきを押さえ込み。

「魔戒天浄っ!」

切り裂く光。
そして闇が訪れた。




次に三蔵が目を開けたときに、視界いっぱいに今にも泣きそうに歪んだ顔があった。
ふいにそれが怒りの表情にと変わる。

「バカ、バカ、バカ、バカっ!」

台詞に合わせるように、どんどんと胸を叩かれる。
三蔵は顔をしかめた。

――ったく、こっちは怪我人なんだぞ、少しは気を遣え。

さほど痛くはないが、傷に響く。
ので、どうにか動く左手で、その頭を懐深くに抱き寄せて押さえ込む。

「ふぇ……っ」

と、今度は泣き出した。
盛大に。

「三蔵の大馬鹿者っ」
「……馬鹿に馬鹿と言われる筋合いはねぇ」
「んなこといっても、馬鹿としか言いようがねぇだろっ。あんなことして、死んじゃうじゃんか」
「死んでねぇよ」

奪われた経文に関する情報を得た。
煩く連れて行けと騒ぎたてる小猿を伴って、経文があるという場所を訪ねてみると、結果としてそれは間違いだとわかった。
今までにもそういうことは多々あったので、それくらいでいちいち気を落としたりはしない。たとえその結論に辿りつくまでにかなりの紆余曲折があったとしても。
だが、今回のはただ気を落とすだけで終わるようなものではなく、ありがたくもないオマケつきだった。
即ち、そこに封じていたものを解いてしまうという。

なにが封じられていたのか、今となってはわかりはしない。
神か、魔物か、精霊か。
ただ強大な力を持っていたことだけは確かだ。
永きにわたる封印に、それの理性はとうになくなり、怒りだけが残っていた。
封印が解けるのと同時に、その怒りが襲いかかってきた。
三蔵も悟空もそれなりに気をつけていたのだが、予想を遥かに上回る力の襲撃にあっけなく叩きのめされた。

そして。

「今回は、たまたま運が良かっただけなんだぞ。あんな状態で大技繰り出して。こんなことしてたら、いつか死んじゃうんだから」
「だから、死んでねぇだろうが」
「死にかけてたのっ。わかってねぇんだろうけど、三蔵、三日もずーっと寝てたんだぞっ」

今まで心配していた反動もあり、怒りに駆られ、悟空は、三蔵の手に押さえ込まれていた頭をぱっとあげた。
この三日間。
閉じられた目が二度と開くことがなかったらどうしようと。
ずっと寝台のそばにうずくまって、三蔵を見守り続けてきたのだ。

「三日……?」
「そう。なんであんなことしたんだよ。俺、『逃げろ』って言ったじゃんか」

大きな金色の瞳に、新たな涙が浮かぶ。だが泣き崩れることはなく、そんな状態でも悟空はきっと三蔵を睨みつけた。

「猿に借りを作るなんざ、死んでもごめんだ」
「なんだよ、それっ。そんなこと言ってると、ホントに死んじゃうぞっ」

さらにむっと、怒りが増した表情を浮かべる悟空を見て、三蔵は思う。
まったくだ、と。

「その言葉、そっくりそのまま返す。あんなの相手に、いきなり飛び込んでいくな」

悟空の顔に、きょとんとした表情が浮かぶが、またすぐにむっとした表情に変わる。

「俺はいいの。別にどうなったって。三蔵は――三蔵は生きてなくちゃ。でないと、なんの意味もなくなっちゃうじゃんか。そんなこともわかんねぇのかよ」

その言葉に、三蔵はため息をつきそうなって押しとどめた。
わかっていないのはこいつの方だと思う。

世界をくれた、と。
光、なのだと。

ことあるごとに、悟空は言う。
だが、それは違う。

閉ざされた岩牢から、開かれた明るい外の世界へ。
確かに三蔵は悟空を連れ出した。
だが、それはあまりにも煩く悟空が呼んだからだ。あんな風に呼ばれなければ、あの場所に行くこともなかった。
つまり悟空は、自分で自分の運命を切り開いたのだ。

それに、世界も、光も、もともと最初からここにある。
三蔵が与えようとして与えたものではない。

だから悟空は、自分の命を投げ出してもいいと思うほど、三蔵を崇める必要などどこにもないのだ。

それなのに。

「三蔵が生きるなら、俺なんてどうでもいい」

本気も本気、とわかる言葉。
強い瞳で、まぎれなく真剣に言うのだ。

だが。

「別に、猿の命なんぞ、欲しくねぇよ。貰ったところで使い道もねぇ」

欲しいのは命ではないということを、この小猿は理解することはない。

いつからか。
なにがあってもまっすぐ前を向く強さを持つこの子供に惹かれたのは。

命さえも簡単に投げだろうとするくらいだ。
身も、心も。
告げれば、捧げることを厭いはしないだろうが。

だが、それは違う。

命を捧げることと。
心を捧げることと。

その違いを、きっとこの子供は理解することはない。

「なぁ、三蔵。別に俺の命を貰ってくれなくてもいいから、さ。ちゃんと、生きろよ」
「俺に生きててほしいんなら、てめぇも生きろ」
「……よくわかんねぇけど」

よいしょ、という感じで、悟空が寝台に乗り上げてくる。
空いたスペースに身体を押し込め、三蔵の隣に添い寝をする。

「そういうんなら、そうする」

悟空は大きく息をつき、三蔵の胸に頭を乗せて目を閉じた。



いつか近い将来。
与えられたものなどなにひとつなく、望むものは自分の手ですべて掴み取れるのだということに、この子供は気づくだろう。

そのときに、胸に潜むこの想いが枷とならぬよう。

そして、そのときまでは、まだこのままで――。


安心したようにすべてを預ける小さな体を、三蔵はそっと引き寄せた。