Proposal
「あれ、三蔵、まだいたんだ?」
しんと静まり返った室内に、少年の声が響いた。
オフィスの明かりは半分消され、既に人の気配はない。
「てめぇこそ、『社長』のくせに残業か?」
部屋に一人残っていた三蔵は、ディスプレイから顔をあげ、戸口に立つ悟空に視線を向けた。
「俺は一回帰ったよ。でも、ねーちゃん……じゃなかった、会長が会社にFAXを送ったからすぐ見ろって言うんで」
悟空は、室内に足を踏み入れた。
「三蔵、一人? 他の人は?」
「あらかたメドがついたから、帰した。もう少しで終わる大詰めのときに倒れられでもしたら迷惑だからな」
「毎日、遅くまでご苦労さまです」
「まったくだ。依頼主が急がせるものだから」
三蔵は、すぐそばまできた悟空を軽く睨んだ。が、いつもとは違う私服姿に少し驚いたような表情を浮かべる。
「しかし、お前、そういう格好をしていると、社長に見えないどころか、まるっきり中学生だな」
その言葉に悟空はむっとした顔をする。
「なんだよ、それ」
こんな風にむくれてみせるところなど、本当にガキっぽい。
最初に会ったとき、悟空が社長だと挨拶したので、三蔵はからかわれているのかと思った。だが、それは真実だった。
聞けば、まだ大学に入ったばかりで、学業と両立させているということだった。もとからこういうビジネスをしようとしていたわけではなく、自分の好きなものを他の人にも紹介したいということで始めたネット販売が当たりに当たって気がついたら会社が大きくなっていた、という話だった。
といっても、行き当たりばったりで素人の幸運が続いた、というのでもないらしい。
こんなナリで、意外と敏腕社長らしいのだ。
世の中はつくづく不思議である。
そんなことを考えていたら、悟空の手が伸びてきて髪に触れられた。
「何をしている?」
「んー。最後だから、セクハラ」
悪戯っぽく笑って悟空が言った。
三蔵は呆れた顔をするが、悟空の手を止めようとはしない。
「三蔵、止めないの?」
「最後なんだろ? サービスだ」
その言葉に悟空の手が止まった。
「……お前なぁ、そんな顔するくらいなら『最後』なんて言葉、使うな」
今にも泣きそうな顔をしている悟空を見て、三蔵が言う。
「だって、このプロジェクトが終わったら、三蔵、もうここには来なくなるじゃん」
三蔵は、悟空の会社の社員ではない。
三か月ほど前、悟空は自分の会社のシステムを一新することに決めた。会社が大きくなって、それまで手作業で行っていたことが追いつかなくなってきたためだ。
三蔵は、その開発を受け負ったソフト会社の社員だった。顧客の個人データを扱うこともあるため、開発は社外ではなく社内で行われることになり、この部屋はそのために作った専用の開発室だった。
ここで働く人間は、この部屋にしか入れないようになっていた。
システムの開発が終わればこの部屋もなくなり、ここで働く人達もいなくなる。
「寂しい、な。せっかくこうして話せるようになったのに、お別れなんて」
もともと三蔵は、相手がどんな人物だろうと自分は自分の仕事をするだけ、と思っている。
だから、最初は通り一辺なビジネスの会話だけだった。
だが進捗確認と称してしょっちゅう遊びにくる悟空の屈託ない笑顔につられ、最近ようやくこうした雑談も交わすようになったのだが。
「ま、仕事は終わりだが、な。別にここでなくても会おうと思えば会えるだろ」
「それって、外でも会ってくれるってこと?」
ぱっと、悟空の顔が輝く。
「さあな。お前の誘い方次第だ」
三蔵は意地が悪いともとれる表情を浮かべた。
「じゃ、三蔵、メシ食いに行こっ!」
「……速攻かよ」
「いいじゃん。三蔵、メシまだだろ?」
「だが、もう店は閉まっているんじゃねぇか?」
時刻はもう午前0を過ぎていた。
「ん〜。じゃあ、俺んちでご飯ってのは? すぐそこ。歩いて行けるよ」
「お前、料理するのか?」
「しないよ。でも食うモンはあるし、下のコンビニでなんか買って行ってもいいし」
会社の入っているビルの一階はコンビニになっていた。
「泊まってもいいよ。そしたら、三蔵、明日楽なんじゃない?」
その申し出に三蔵は少し考えるような表情を見せた。
「な、いいだろ、三蔵」
悟空はもう一押し、とばかりに言葉を重ねる。
やがて三蔵は唇の片端あげ、笑みを浮かべた。
「わかった、いいだろう」
それから作業を終わらせて、コンピュータの電源を落としにかかる。
「俺、ねーちゃんのFAXを取ってくる。三蔵、下で待ってて」
悟空はそういうと、風のように走り去っていった。
「泊まっていけ、ね」
帰り支度をしながら三蔵は呟いた。
それがどういうことなのか、本当にわかっているのだろうか。
微かな笑みを浮かべたまま、三蔵は席を立った。