もうなにも
寺院の庭でどこからか紛れこんできた大型犬と戯れていた悟空は、ふと顔をあげた。
その視線の先には、回廊を歩く三蔵。
常人であれば、動きで気付くには少し遠い距離だ。が、悟空は常人ではないし、三蔵の気配というのは悟空にとって特別のものだ。だから離れていてもすぐにわかる。
悟空はすくっと立ちあがると、三蔵の方に向かって走り出した。
実は、いまよりちょっと前にも、同じ回廊で三蔵の姿を見かけていた。
いまは執務室に戻るところだが、そのときは執務室から出て行くところだった。
仕事が忙しいっていってたのにどうしたんだろう、と思ったのだが、理由を聞いてもたぶん悟空に関係のあることではないし、言葉の意味がわからないだろうし、なにより煩がれるだけなのでやめておいた。
だから今回もなにがあったのか、聞こうと思ったわけではない。
すでに日は高く、昼までもう少しだ。
お昼は一緒に食べられるのか。
ちょっとそれが気になっただけだった。
タカタカと走っているうちにも三蔵は回廊を進んでいく。
早くしないと回廊の先の建物に入ってしまう、と思ったところで三蔵の足が止まった。
三蔵に付き従っていた三人の若い僧たちも止まるが、不思議そうな顔をする。そっとお伺いをたてようとするところに。
「三蔵っ!」
悟空の声が被さった。
仕方ない、とでもいうように軽く溜息をついて三蔵は駆け寄ってくる悟空の方を見、そして。
バシッとハリセンが振り下ろされた。
「いってぇ」
悟空は頭を押さえて座り込む。
「犬を連れ込むなと言ってるだろうが」
気がつくと追いかけっこと勘違いしたのか、犬も一緒についてきていた。
眉をひそめている若い僧たちに気付き、悟空はじゃれてくる犬をひと撫ですると、ここから離れて外に行くように促す。
犬は、くぅんと一声鳴くが、もう遊んでもらえないことがわかったのか、素直にその場を離れていった。
それを見送って。
「別に連れ込んでねぇもんっ。ここにいたんだもんっ」
悟空は座り込んだまま、ぷくっと頬を膨らませた。
「屁理屈、言ってんじゃねぇよ」
と、パシッと、もう一発頭の上にハリセンが振り下ろされた。
「三蔵っ、ひでぇっ」
ぎゃんぎゃんと仔犬のように吠えたてて、悟空は三蔵を見上げる。
が。
ふと、その声が止まった。
「……」
いや、声を出そうとするのだが、言葉が出ない。
一瞬のうちに三蔵だけを残して、すべてが消え失せる。
なんだか時が凍りついてしまったかのようだ。
三蔵から目をそらせなくなる。
三蔵だけしか目に入らなくなる。
なぜなら見下ろしてくる三蔵が――。
その視線が――。
と、突然、ポンと頭を軽くハリセンで叩かれた。それで悟空は、はっとなる。
周囲の景色が戻ってくる。
「昼まで仕事だ。邪魔すんな」
「うん……」
三蔵の言葉に頷いたものの、意識が現実とどこかしらずれている――ような感じだ。
そんな悟空を一瞥し、だがなにも言わずに三蔵は執務室に向かって歩き出す。
あとには少しぼうっとした表情で、回廊に座り込んだままの悟空が残った。
執務室で三蔵は若い僧たちとしばらく話をした。その僧たちが一礼して立ち去った後で、三蔵は背もたれに身を預け、溜息をついた。
机の上に積まれている書類がまた数を増したようだ。
三蔵はもう一度溜息をつくと立ち上がり、現実から逃れるように煙草を口にくわえて窓辺へと寄った。窓枠に寄りかかって一服する。
煙草が半分くらいになったところで、煙とともに大きく息を吐き出して、煙草を灰皿に押しつけた。
それから窓を大きく開けて外を見る。
執務室から少し離れたところにある大きな木を。
じっと見ていると、ガザッと木が揺れた。
そして。
「逃げるな」
飛び降りた影に、三蔵は声をかける。
いまにも走り出していきそうな影が止まった。
悟空だ。
木の葉に紛れ、普通の人であればそこに悟空が潜んでいたことなど気がつかなかったろう。
だが、三蔵も悟空と同じだ。
悟空の気配はすぐにわかる。
遠く離れた五行山からの呼び声が聞こえたくらいなのだ。このくらいの距離など、ないに等しい。
三蔵はまっすぐ射抜くように悟空を見る。
「悟空」
そして静かに名を呼んだ。
「……っ」
名前を呼ばれた悟空は、顔を歪める。
が、名前を呼ばれて、なおかつ三蔵の言葉では逆らえるはずがない。
三蔵が招くように手を差し伸べれば、おずおずと悟空は三蔵の方に近づいてくる。
三蔵は、執務室の窓のすぐそばに来た悟空の腕を取ると、おもむろに抱きあげるようにして窓枠を越えさせた。
「三蔵っ」
さすがにびっくりして悟空は三蔵にしがみつく。
のを、そのままにして、三蔵は片手で悟空を抱きかかえたまま開け放った窓をパタン、と閉めた。
「……さんぞ」
なんだか不安気に金色の瞳を揺らして見下ろしてくる悟空を、三蔵は逆に見上げる。
抱きあげたままだからいつもとは見る角度が違って違和感がある。
なんとなく笑みを誘われて微かに笑うと、悟空の頬に朱が走った。
そんな悟空との距離をつめ、軽く唇を触れ合わせる。
触れるだけのキスを二、三度繰り返して唇を離すと、それだけで放心してしまったかのような表情が目に入った。が、すぐに目の焦点が合い、一気に頬の赤みが増す。
「さ、さ、さ、さんぞっ」
どんどんと大きくなる声を。
「煩い」
ひとことで切って捨て、三蔵はまた悟空の唇を塞いだ。
今度は唇を食むようにして、もう少し長く。
再び唇を離すと、閉じられていた目蓋の下から金色の瞳が現れた。
柔らかく溶けかかった、蜂蜜のような色。
目尻にそっと唇を押し当てて、三蔵は悟空を机の上に座らせた。
すると、見る角度がまた違ってくる。
「こっちのが普通だな」
そう声をかけると、悟空はどういうわけか泣きそうな顔になる。それから顔を俯けると、ぎゅっと法衣の袂を握ってきた。
三蔵が人に触れられるのを厭うているのを知っているのだろう。
三蔵の法衣の袂を握るのは、悟空が許されている唯一の甘え――だと悟空は思っている節がある。
それ以上のことをしても三蔵が怒らないことを、きっとわかっていない。
だが――。
それを教える気は三蔵にはない。
自分でわからなければ意味がないことだろう。
三蔵は悟空の頤に手をかけて、顔をあげさせた。
金色と紫暗の瞳が出会う。
あのときに――回廊で悟空が見上げてきたときに、悟空の様子が少しおかしかったのは、こうして見つめ合うことを思い出していたからだろう。
それは予想というより確信。
なぜなら、三蔵も同じであったから。
そして触れたい、と思った。
切実に。
ゆっくりと顔を近づけていくと、微かに悟空が息を呑んだ。
そこに軽く口づける。
二度、三度とキスを重ねると、そっと三蔵の背に悟空の手が回された。
深く、ときには柔らかく何度もキスを交わし合う。
「さんぞ……」
キスの合間に、吐息とともに呼ばれる。
「なんだ?」
ほとんど唇が触れ合う距離で三蔵が尋ねる。
「し……ごと……」
微かに三蔵は苦笑する。
「どーでもいいだろ、んなもん」
「でも、もうすぐ……お昼」
軽く二、三度唇が触れ合う。
「だから?」
「だから……って――」
こんな折なのに――涙を浮かべた金色の瞳は甘く蕩けきっているのに、悟空は困ったような顔をする。
なんだかおかしくなって、三蔵はクスリと笑うと悟空を腕のなかに抱きしめた。
「しばらく誰もこねぇよ。そう言ってある」
一瞬、沈黙が降り。
「え?」
腕のなかで困惑したかのような声があがる。
「だから安心しろ」
「安心って――?」
本気でなんだかよくわかっていない悟空の唇を三蔵はまた塞ぐ。
「なにも考えるな、ってことだ」
柔らかなキスのあとに額の金錮に唇を押し当てて言うと、悟空が驚いたように目を見開いた。
そしてそれから。
微かな笑みが浮かび、ふわりと悟空が抱きついてきた。
――ホントは、もうなにも考えられない、よ。
そんな言葉とともに。