4. 隠し事したって無駄だもん


 寺院の正面門のすぐ近くにある大きな木の上で、悟空はずっと三蔵の帰りを待っていた。
 午後の早い時間に帰ってくると告げて、朝、長安の有力者のところに出かけた三蔵は、真夜中近くの今になっても、まだ寺院に戻ってこなかった。
 三蔵ご贔屓の有力者に引き止められているのだろう、と最初はあまり気にしていなかった僧達だったが、さすがに日が暮れてくると心配になり、一人二人と門のところに集まってきた。その有力者を三蔵は嫌っていたので、いくら歓待されても泊まるということはありえなかったからだ。ということは、帰り道で何かがあったとしか思えない。
 夜になって、迎えの僧が数人、長安の町に降りていった。
 午後からずっと門のそばで待っていた悟空は、僧の数が増えてくるにつれ、いろいろと煩わしいことを言われるので、門のそばから離れて今いる木の上に身を潜めた。
 そして、悟空にしては珍しく、おやつも夕飯も食べずにずっとその場に留まっていた。
 三蔵の身が本当に危険であれば、悟空にはわかる。
 どうしてわかるのか、と問われても困るのだが、わかるのだ。
 だから、地上にいる僧達のように、心配して浮き足立って騒ぎ立てたりはしなかった。
 だが、漠然とした不安が胸に広がっていた。
「俺を呼んでよ、三蔵」
 悟空は呟いた。
 どんなに些細な危険でも、俺を呼んで。呼んでくれれば、すぐに飛んで行ける。
 と、悟空の顔がぱっとあがった。闇をすかすように、その目が細められる。
 やがて、三蔵が門のところに現れた。白い法衣のところどころが血で染まっていた。
「返り血だ」
 周りを取り囲んで騒ぎ立てる僧達に、三蔵は面倒臭げに言った。
 三蔵の後ろには、供について行った僧達と、迎えに行った僧達がいた。こちらの法衣も血に染まっているが、返り血ばかりではない。
 手当てをするように指示をしてその場を立ち去ろうとした三蔵の目が、ふと木の上にいる悟空を捕えた。三蔵は何も言わずに視線を外し、そのまま寺院の奥へと消えていった。
 悟空は木から飛び降りた。

 長安の町からの帰り道、妖怪に襲われた。回避するのに手間取り、その上、迎えにきたという僧達を助けなくてはならない羽目に陥って遅くなった。
 三蔵は待っていた僧正に簡単に報告すると、自室に引きあげた。
 扉を開くと、そこに悟空がいた。
「疲れているから、今日は一緒に寝ないぞ」
 三蔵は小銃を机に置き、肩から経文を外して言った。
 三蔵が寺院を留守にして帰ってきた日は、悟空が三蔵の部屋に押しかけてきて、一緒に眠ることが多かった。
 そのせいもあって、寺院内での二人の仲はいろいろと憶測されていたが、実際は本当に眠るだけで、一部の僧達が言っているようなことはなかった。
「腕、見せて」
 悟空は、三蔵の方に手を差し伸べた。
 三蔵の表情が、普通の人間ならば気がつかないくらい微かに動いた。
 悟空にはそれで充分だった。三蔵に近付き、そっと右手首を掴んだ。
「……っつ!」
 三蔵の口から思わず声が漏れた。
「捻った?」
 三蔵は、悟空の質問にちょっと肩をすくめ、それから法衣を上だけ脱ぐと、黒いアームカバーを外した。
「誰にもばれねーと思ったんだが」
「隠し事したって無駄だもん」
 悟空はわざと軽い口調でそう言うと、三蔵の手首を確かめた。
「腫れてるね。冷やした方がいいと思う。氷嚢をとってくるね」
「おい……」
「わかってる。他の人にはばれないように、だろ? でも何で?」
「怪我したのがばれたら、供の数を増やすとか言うだろうが。面倒臭せぇ」
「だったら、今度から俺を連れて行って」
 悟空の金色の目に真剣な光が浮かんだ。まっすぐに三蔵を見る。
「あんな奴ら、かえって三蔵を危険な目にあわせるだけじゃないか。俺ならそんなことはしない」
 それから、その瞳が不安そうに揺らいだ。視線が床に落ちる。
「……悟空?」
「なんだが、ピリピリするんだ」
 悟空の言いたいことが三蔵にはわかった。このところ、世情が不安定だ。遠くの寒村ならいざ知らず、前なら長安の町の行くのにこんなに危険な目に会うことはなかった。
 何かが起こっていた。
「三蔵。置いていかないでね」
 頼りなげな口調に、三蔵の顔に苦笑めいたものが浮かんだ。
 何度言っても、聞いてくる。何度でも聞いて、安心したいのか。
「置いてかねぇよ。隠し事しても無駄なんだろ」
 悟空は笑顔を見せると、扉の向こうに消えた。

 ――これは、西へ旅立つ少し前の出来事。