8. 空から降ってきた


 ある日の夕暮れ、意気揚々と小猿――悟空が蓮の花を手に寺院に帰ってきた。
「どうしたんだ、それは」
 今はまだ初春で、蓮の花の咲く時期ではない。
「空から降ってきた」
 あっけらかんとした答えが返ってきた。
 ……空から降ってきた?
「手紙がついてた」
 なんだか嫌な予感がして、奪い取るようにして手紙に目を通した。
『ひごろ おもしろいものを みせてもらっている れいだ。 はなびら いちまいにつき ひとつ ねがいを かなえてやる』
 ご丁寧にひらがなで書かれている。何なんだ、これは。
「すっごいんだよ、この花。さっき、肉まんと大福が出てきた」
 よく見ると花びらをむしった痕があった。
「三蔵にも見せてあげようと思って」
 悟空はそう言うと、えいっとばかりに花びらをむしった。
「明日、三蔵がお休みになりますように」
「そんなこと、ありえるわけねぇだろ」
 明日から寺院を三日ほど留守にしなくてはならない。面倒なこと極まりないが、俺以上に悟空の方がそれを嫌がっていた。
「三蔵さま」
 と、いきなり部屋の扉がノックされた。返事をすると、恐縮した態の僧がいた。
「お寛ぎのところ申し訳ありません。明日からの法事ですが、先方に差し障りが出たということで、先送りにしてほしいとの連絡がありました」
 思わず悟空の方を振り返った。『やった』というような笑みを浮かべていた。
 僧を下がらせると、悟空に向かって手を差し出した。
「三蔵も欲しいの?」
 悟空はまた花びらをむしろうとした。その手を掴んで止め、花をとりあげた。
「これは捨てる」
 きっぱりとした言葉に悟空の目が見開かれた。その目の前でライターを取り出し、花に火をつけた。
 このままゴミ箱に放り込んでも拾うだろうと考えてのことで、正直、燃えるとは思っていなかった。だが、その蓮の花は紙でできているかのようにあっけなく炎に包まれたので、慌てて灰皿の上に置いた。
「バカ猿!」
 悟空が炎に向かって手を伸ばした。間髪のところで、体ごと抱きとめた。
「どうしてだよ……。まだ一番大事な願い、叶えてもらっていないのに」
 涙声で悟空が言った。
「あんなものに頼るな。欲しいものがあったら、自分で掴み取れ」
 その言葉に泣きじゃくる声が一層はげしくなった。
 ため息が出た。こんなに泣いてまで欲しくて、手に入らないものって何だ?
「願いは何だ?」
 泣き声が止まった。さっき後ろから抱きとめた格好のままだったので、表情はわからない。だが、口にするのを躊躇っているようだった。
 再度、ため息をついた。ま、無理に言わすこともないだろう。そう思って、腕を外そうとした。
「……ずっと、三蔵のそばにいたい」
 小さな声が聞こえてきた。
 悟空の体から手を離した。その瞬間、肩がびくっと揺れるのがわかった。
 それを見て、三回目のため息をつきそうになった。どうせ、一蹴されたとかそんなことを思っているのだろう。ったく、めんどくせぇ。
「好きにすりゃあ、いいだろ」
 声をかけると、悟空がぱっと振り返った。その大きな金色の瞳はこれ以上ない程見開かれて、まん丸だった。
「そんなのは願い事じゃなくて、お前の意思だろうが。お前の意思を止めることは誰にもできねぇよ」
 満面の笑みが浮かびあがってくる。屈託のない笑顔。
「さんぞー、ありがとう」
 そして、腕に抱きついてきた。ったく、鬱陶しい。
「礼を言われる筋合いはねぇ」
「大好き」
 こちらを見上げる極上の笑顔。

「なんだ、人の好意を無にしやがって」
 遥か彼方の天界で、観世音菩薩は呟いた。
「ま、面白いモノが見れたからいいか」
 美しい口元が笑みを形作る。そして、口の中で言葉には出さずに言う。
 自分の顔に浮かんでいる表情をわかっていないだろう、『玄奘三蔵』
「さて、次はどんな面白いモノが見れるか」
 鼻歌を歌いだしそうな表情の観世音菩薩の横で、二郎神が深いため息をついた。