9. 単純馬鹿


 悟空は弾むような足取りで、森の中の道を歩いていた。
 三蔵と買い物をしている最中、偶然、八戒に会ってお茶に誘われた。八戒のお茶にはもれなく美味しいお菓子がついてくる。足取りも軽くなろうというものだ。
 足を踏み出すたびに、悟空の後ろでひとつにくくった髪の毛がぴょこぴょこ跳ねる。後ろを歩く八戒は、まるで尻尾みたいだと、思わず笑みを浮かべた。可愛らしい小動物を連想させる。隣を歩く保護者は、相変わらず仏頂面だが、雰囲気が柔らかい。同じことを考えているのかもしれなかった。
 と、突然、悟空の足が止まった。
「どうかしましたか?」
「悟浄の声がする」
 八戒の問いかけに悟空はそう答えると、いきなり横にそれ、繁った低木をかきわけた。そうやって進んでいくと、急に開けたところに出た。
 そこに悟浄と、見知らぬ女の人がいた。
 悟浄はうっとりとキスを受けている女性から顔をあげた。何だか見られているような気がする。見回すと、キョトンとした顔をしている悟空がいた。悟浄の顔に悪戯っぽい笑顔が浮かんだ。
「小猿ちゃんも混ざる?」
 そう言った途端、悟浄は激しく後悔した。悟空の後ろから、無愛想な保護者と笑顔を浮かべた保父さんが、ともに怒りのオーラを発しながら現れたのだ。
 しかも、腕の中にいた綺麗なお姉ちゃんは「きゃっ!」と一声あげると、悟浄を突き飛ばしバタバタと走り去ってしまった。
「悟浄、お話があるんですけど」
 八戒が笑顔で迫ってきた。悟浄は、顔をひきつらせた。
「三蔵、後からゆっくり来てくださいね」
 八戒は笑顔を浮かべたまま、ズルズルと悟浄をその場から引きずって行った。
 さてどうしたものか、と三蔵が考え込んでいると、悟空が小首をかしげて言った。
「なぁ、三蔵。さっきの人、風邪、ひいてたのか?」
「は?」
「だって、悟浄、薬、飲ませてたろ?」
 あまりにトンチンカンなことを言われて、三蔵は一瞬戸惑うが、すぐにこの間、悟空が風邪をひいた時のことを思い出した。熱が高くて朦朧とし、薬が飲めなかった悟空に口移しで飲ませてやったことがあったのだ。
 その線で丸め込もうかと思ったとき、悟空が袖をひいた。三蔵は何も考えず、悟空の方に身をかがめた。
 と、悟空が三蔵の唇を舐めた。
「何をする!」
 三蔵は、ぱっと悟空から身を離した。
「だって、悟浄、食べてたみたいだったから。口って美味しいのかなって思って」
 あくまで無邪気に悟空は答えた。それから三蔵の方に近付くと、手を伸ばした。
「今の、よくわかんなかった。もう一回」
 唇が誘うように少し開いている。
 三蔵は、差し出された手を掴むと乱暴にひき、柔らかな唇を己の唇で塞いだ。
 唇を割り、歯列をなぞり、びっくりしたように逃げる舌を追いかけて絡める。角度をかえて、何度も何度も口内を蹂躙する。合間に優しくついばんだり、触れるだけのキスの雨を降らせながら。
 ようやく唇を離すと、力が抜けたように悟空は三蔵の方に倒れかかった。
 赤く上気した頬、涙が浮かんで濡れたように光る金色の瞳。
「さん……ぞ……」
 呼ぶ声が甘く震えている。
 頬に手を添えて、もう一度、その唇を味わおうとしたとき、どこかで鳥の声がした。
 スパーン。
 小気味よい、ハリセンの音が響いた。
「いってぇ〜〜」
 地面に座りこんで、悟空は頭を押さえた。何がなんだかよくわからない。いきなり天国から地獄に落とされたような気分だ。
「忘れろ!」
 と、上から声が降ってきた。
「ここであったことは、全部、忘れろ!」
「ちょっと! 待ってよ、三蔵!」
 くるりと背を向けてスタスタと去っていく三蔵を悟空は慌てて追いかけた。
 悟浄の家につくまで、三蔵は一言も口をきかなかった。
 そして、悟浄の家の扉を開くと、そこには――。
「あれ、どうしたの、悟浄? ボロボロじゃん」
 変わり果てた姿になった悟浄が机に突っ伏していた。隣に相変わらず笑顔を浮かべた八戒が佇んでいた。悟浄は、悟空の声に顔をあげた。
「誰のせいだ、誰の。だいたい、お前があんなとこに来るから――」
「あんなとこ?」
 悟空は首をかしげた。その様子は本気でわかっていないようだ。
 なんだか奇妙な間がおとずれた。それを破ったのは、無邪気な悟空の声。
「八戒、喉、渇いた。コーラ、貰うな」
 そう言ってパタパタと足音を響かせ、悟空は台所に消えていった。
「忘れちゃったのか、小猿ちゃん」
 いささか呆然としたように悟浄が呟いた。
「どうやったんですか、三蔵?」
 八戒と悟浄が三蔵を見つめた。
「さぁな」
 三蔵は、あらぬ方を向いて答えた。
 あいつ、本当に忘れやがった。
 ここであったことは、全部、忘れろ――その言葉通り。
 単純馬鹿。
 三蔵は心の中で呟いた。