29. パーフェクト


 幽き光に照らされた森には、風に揺れる木の葉と虫の声以外の音はなかった。だが、そこかしこに息づく生命の豊かさに圧倒される。まどろみ、時がとまっているかのような天界とは違い、地上ではこんなに静かなのに、生命の息吹が力強く鮮やかに感じられる。
 しばらく歩くと森が途切れ、洞窟に出くわした。入り口に火が焚かれている。炎の先には眠る青年とそれを座って見守る少年。
「心配か?」
 声をかける。少年がはじかれたように動いた。片膝を立て、いつでも動ける体勢で手にした如意棒の先をこちらに向けた。睨むように鋭い光を放つ金色の瞳。だが、驚きは隠せない。こんなに近くにくるまで気配を感じなかったことに驚いているのだろう。
「別に危害を加える気はねぇよ」
 知っていた頃よりも背が伸びて幾分大人びた少年――悟空は、敵意がないことを感じ取ったのか、不審そうな顔をしながらも、如意棒を地面に下げた。
「あんた、誰?」
「俺か? 俺は観世音菩薩だ」
 胸をはって質問に答えたが、ますます不審そうな表情が返ってきた。失礼なヤツだ。
「ってゆーと、悟浄が言ってた三蔵を助けてくれた人?」
「そうだ」
「でも、何で? 別に今は誰も怪我してないよ」
「それの心配をしてたろ?」
 あごで眠る金蝉――いや、玄奘三蔵を差し示すと、悟空はびっくりした顔になった。そういう表情は、昔と変わらない。
「そいつは人間だからな。お前達と基礎体力が違う」
 元が神様でもな。ま、もともと金蝉は体力はなかったが。もしかするとあれに比べると今の方が丈夫かもしれん。
「だからこの旅は少々キツイかもしれないな」
 言われて、悟空の顔に途端に心配そうな表情が浮かんだ。
「三蔵、いつも無理をしてる。そういうところ、絶対見せないようにしてるけど」
 こいつには、わかってしまうのだろう。
「だったら、お前のその有り余る『気』を分け与えてやれ」
「気?」
「お前は大地の化身だからな。その金鈷で大部分の力を封じられてはいるが、大地に立つだけで、大量の『気』を大地から受け取っている。それをこいつに分けてやれ。そうすれば、こいつも多少の無理はきくようになる」
「三蔵の役に立てるの?」
 まるで雲に隠れていた太陽が顔を覗かせたように、明るい、輝くような笑顔が浮かんだ。
 昔、同じ笑顔を見たことがある。金蝉を見るときの、金蝉のことを話すときの笑顔。それとまったく同じもの。
 お前はあのチビの太陽でいられるか。
 そう金蝉に聞いたことがあった。答えはこの笑顔にこそあるのだろう。
「でも、どうやるの?」
「手のひらに意識を集中して『気』を集め、それをこいつに送り込む」
 悟空は、真剣な顔でじっと手のひらを見つめた。それから大きく深呼吸をすると目を閉じ、しばらくしてからその手のひらを傍らで眠る玄奘三蔵に押し当てた。
 が、何の変化も起こらない。
「……下手くそ」
「なんだよ、言われた通りにしてるじゃないか」
「お前、集中力ねぇな」
「なんだと!」
 言い合いの最中に微かなうめき声のようなものがした。
「さんぞ……」
 悟空の顔に『しまった』というような表情が浮かんだ。
 どうやら眠っていた玄奘三蔵を起こしてしまったらしい。ふっと目があいた。昔と変わらぬ紫暗の瞳。その目が昔と同じ光を湛えて悟空を見た。
「……眠れないのか?」
 そう聞くと、玄奘三蔵は悟空の腕を掴み引っ張った。
「うわっ!」
 倒れ込んでくる悟空を胸に抱きとめる。
「寝ろ。明日がキツイぞ。足手まといは必要ねぇからな」
 そう言って目を閉じる。腕の中に閉じ込められた悟空は驚きの表情を浮かべていたが、やがて幸せそうに笑うと目を閉じた。
「うん。ありがと、さんぞ。……大好きだよ」
 悟空の手のひらが玄奘三蔵に触れる。
 金色の光が二人を包むのが見えた。
「パーフェクト」
 やればできるじゃないか。
 とりあえず、これで一安心ってとこか。
 気配を消してその場を去る。最後にもう一度振り返って、二人を見た。
 二人とも幸せそうな顔をして眠っている。本当にこいつらは変わらないな、と思う。
 だが、先ほど「大好き」と告げた悟空の声には、前にはなかったものが混じっているような気もした。
 しばらく二人を見ていたが、踵を返して天界に向かう。
 ……ま、いっか。細けぇことは。
 そう、思った。