32. 酒と煙草とチョコレート


「さん……ぞう……」
 悟空は小さく呟いた。
 辺りは賑やかな人波。これだけ大勢の人がいるのに、もとめる人はいない。
 どこ?
 きょろきょろと視線を走らせる。必死になって周囲を見回すが、目立つその姿は見出せない。
 もしかして。
 悟空の胸が瞬時に冷える。
 捨てられた、の――?
「ヤダ」
 悟空はもと来た道を走りだした。

 走り回って疲れ果て、もう自分がどこにいるのかもわからなくなって、悟空は広場の一角、綺麗に設えられた花壇の縁に腰かけた。
 久しぶりに休みがとれた三蔵に連れられて、長安の町に買い物に来ていた。
 何もかもが珍しく、あちこちとはしゃぎまわって、何度も三蔵にハリセンを落とされた。
 そばから離れるな、うろつくな、と。
 だけど、それは無理な話で、気がつくと三蔵の姿がなかった。
 あまりにも煩くしたからだろうか。
 悟空の目に涙が浮かんできた。
 三蔵は煩いのはキライだと言っていた。
 だから、捨てられたのだろうか。
 目の前を歩いていく人の群れ。途切れることのない賑やかさ。
 あの岩牢にいたときとは大違い。
 だけど。
 こんな風に捨てられるのならば、たいした違いはない。
 パタパタと零れ落ちる涙を拭いもせずに、ぼんやりと人の流れを眺めていた悟空の目に、人波をかきわけるようにして、近づいてくる人影が映った。
「さ……んぞ……?」
 悟空の目が驚きに見開かれた。
「この、バカ猿っ!」
 近づいてきた人物が最初に発した言葉がそれで、悟空はまたハリセンを落とされるのかと身構えた。
 だが。
「迷子の時は、その場から動くな」
 そう言われて、引き寄せられた。
「さんぞ……」
 悟空は呟くと、盛大に泣き始めた。

 涙が止まらない。
 でも、もういい加減、泣き止まないと、三蔵が呆れる。
 それがわかっていてなお、悟空は涙を止めることができないでいた。
 だって、怖かった。凄く、怖かった。
 と、そっと、三蔵から引き離された。
 呆れ果てて、うんざりしてしまったのだろうか。
 もう、こんな面倒なことはごめんだと。もう、いらないと――。
 悟空の目に新たな涙が浮かんできた。
「口、開けろ」
 いきなり三蔵が言った。
 思ってもいなかったことを言われて、悟空は目をしばたいた。驚きで、涙が途中で止まる。何が何だかわからなかったが、それでも言われた通り、口を開けた。
 そこに、何かが放り込まれた。
 何か。
 甘い――。
「これ、何?」
 口の中で溶ける、甘くて美味しいもの。
「チョコレート」
 三蔵と買い物をしている最中、通りすがりの子供が食べているのを見てねだった。
 煩げにしていたのに、それを買ってくれたのだろうか。
 三蔵は銀色の包みを剥がすと、茶色い固まりをまた差し出した。悟空は口を開けた。
「甘い。美味しい」
 思わず笑顔を浮かべて言う。
 いつの間にか、涙は止まっていた。
「帰るぞ」
 三蔵が残りのチョコレートを悟空が持っていた紙袋の中に放り込んだ。
「買ったものを持たせたまま、捨てたりしねぇよ。――大事なものなんだから」
 そう言って三蔵は踵を返す。
「三蔵、待って」
 悟空は慌てて立ち上がった。

 紙袋の中身は、酒と煙草とチョコレート。
 でも、大事なものは、それじゃない。
 パタパタと後を追ってくる足音を、三蔵は強く意識した。