初花奇譚


 微かに軋むような音とともに、牛車が止まった。帰ってくるまでの道のりがやけに早かったように思えるが、夜中に呼び出され、空が白む頃まで付き合わされたので、途中、うたた寝をしていたせいだろう。
 なにか夢を見ていたような気もするが、覚えていない――と、言おうものなら、非難の目を向けられるだろうが、構うものか、と三蔵は思う。
 見る夢すべてになにかしらの兆しがあったら、ゆっくり寝てもいられない、と。
 そんなことを考えているうちに、降りるための準備ができたようだ。外から声がかかり御簾をあげてみれば、牛が外され脇にどけられていた。
「おかえりなさいまし」
 柔らかな笑みを浮かべる青年に出迎えられる。
 こんな風に迎えられるようになったのは最近のことなのだが、いつの間にか、これも日常と思えるようになった、と思いつつ、三蔵は前板に置かれた沓を履く。
 そんな感慨など口にする気は毛頭なかったが、なんとなくこの笑顔を見ると、自分の邸に帰ってきたのだな、と思う。
 牛車を降り、邸に向かって歩き出そうとしたところ。
「三蔵っ」
 どこからともなく元気の良い声がした。パタパタと駆けてくる足音が響く。
 三蔵は、そっと溜息をついた。
 これもまた、自分の邸に帰ってきたと思えることなのだが、騒がしいことこのうえない。
 子供なのだから仕方ない――という時期は過ぎた。もう元服してもおかしくないのだから。第一、子供にしても、駆け寄ってくる姿は泥だらけで、元気がありあまりすぎているのが見てとれる。
「お帰り、さんぞっ」
 満面に笑みを浮かべ、勢いのまま抱きついてこようとするのを。
「……の、バカ猿っ」
 容赦なくハリセン……もとい、檜扇を振り下ろす。
「ふぎゃっ」
 なんだか動物の鳴き声のようなものがあがり、駆け寄ってきた子供が地面に沈んだ。
「なにすんだよ、いきなりっ」
 片手で頭を押さえ、まるできゃんきゃん吠える仔犬のように、子供が抗議の声をあげる。
「もう、怪我してるのに、おっこどしちゃうとこだった」
 ぶつぶつ言う台詞にひっかかる。
 ――怪我?
 ざっと見てみるが、子供がどこか怪我をしている――ようには見えない。だが、そうやってよく見てみると。
「……おい、猿」
 地を這うような低い声が三蔵から漏れる。
「猿じゃねぇっ!」
 と、むっとしたような声が返ってきた。
「ちゃんと名前で呼べよな。シツレイだろ」
 ぷくっと頬が膨らむ。
「猿で充分だろうが――って、んな話をしてるんじゃねぇよ。なんだ、それは」
 問いかけるが、ますます頬を膨らましたままで答えはなく、拗ねたように睨まれるだけだ。
 このままでは埒が明かない。
 軽く溜息をつき。
「――悟空」
 三蔵は、子供の名前を呼んでやる。
 と。
 ぱっと子供が――悟空が笑顔になった。周囲まで明るくなるような、嬉しくて仕方がない、といった笑顔。
「これのこと?」
 それから片手で抱えていたものを、よく見せようとするかのように三蔵の方に差し出した。
 それはふわふわとしたもので――動物のようだ。
「ポン太っていうんだ。怪我してるんだ」
 悟空の言葉では、それがなんの動物で、どうしてここにいるのか、まったくわからなかったが、どうやら怪我をした動物を拾ってきたらしい、というのだけは推測できた。
「……もといたところに返して来い」
 面倒はごめんだ、とでも言うように、三蔵は機嫌の悪い、低い声で言い渡す。
「え? だって怪我してるのにっ。手当してあげねぇと!」
「あのな。そいつは野生だろ。人が助けていいものじゃない」
「なんで!」
「一度、人の手で世話をした動物を野生に戻すのは難しい。そんなことはわかっているだろう」
「でも、怪我してるのに」
「それで終わりになるのなら、それもそいつの運命だ」
「でも」
 子供は俯き、動物をぎゅっと胸に抱くようにする。
「このままじゃ死んじゃうかもしれないけど、手当すれば助かる。そしたら、俺が気づいたことも運命かもしれないじゃんか」
 それから顔をあげ、きっ、と三蔵を睨みつけるようにする。
「気づいたのに、知らんぷりするなんて、俺にはできねぇもん」
 強い光を放つ金色の瞳。だが、少しだけ潤んでいるように見えるのは――見間違いではないだろう。
 まだほんの赤ん坊だったから覚えていないと思っていた。だが、もしかしたら悟空は、誰かから聞き及んで知っているのかもしれない。
 自分が拾われのだということを。
 もしも、拾われることがなかったら――。
 そんな風に、自分と重ねて見ているのかもしれない。
 ふぅ、と大きく三蔵が溜息をついた。


continue・・・