「悟空、さっきから何をそんなに熱心に磨いてるんですか?」
 辿り着いた宿の一室。ベッドの上に陣取った年下の仲間は、その手にした物を、大切に大切に磨いていた。
「うん?これ」
 しゃらんと澄んだ音を立てて揺れた鎖、その先に付いたのは、誰が見ても一目で値が張るものだと分かるくらい、見事な細工を施した懐中時計。
「随分、値打ちのある物みたいですけど」
「う〜ん、それは分かんないけど、三蔵に貰ったんだ」
 そう言って笑う悟空に、翡翠の瞳を細めて、
「悟空の宝物なんですね」
 八戒の言葉に、悟空は大きく頷いた。


二 輪 草



 淀んでいく視界の先、黒い人影が何事かを言っている。
「三蔵様から受けた御恩も忘れ、何という事を」
「恩を仇で返すとは、正にこの事」
「だがこれで、三蔵様も我らの進言に、お耳をお貸しくださるだろうて」
「相応の処分が下されましょう」
「よりによって、三仏神様から賜った御恵贈の御品を盗むとは」
 人影の止む事のない嘲笑が、次第に遠くなっていく。
「盗んで、ない…あれは…さんぞ、くれた……お守、り」
 消え入る声が届くはずも無く、ゆっくりと意識が闇に沈んだ。

――――さん、ぞぉ…

 風が大気を震わせた。



「三蔵、そのキラキラしてるの何?」
 執務机の上で、差し込む日差しに輝くそれを目聡く見つけた少年は、負けないくらいに金瞳を輝かせて、部屋の主を見上げた。
「これは懐中時計だ」
「懐中、時計?」
 己の言葉をオウム返しに言って、首を傾げた養い子に、
「お前にやるよ」
 彼にしてみれば、それは本当に些細な、ただの気まぐれだったのだ。


「いいか、変な騒ぎは絶対に起こすんじゃねえぞ」
「うん、解ってる。いってらっしゃい、三蔵」
 山門で出仕に向かう三蔵を見送る。
「早く帰って来てな」
 振り向く事のない背中に呼びかけて、くるりと踵を返し、部屋へは戻らずにいつもの遊び場に向かって、走り出した。
 お気に入りの場所に着くと、少年は上着のポケットから懐中時計を出して、両掌に乗せた。
「キラキラしてる」
 降り注ぐ太陽を受けて、細密な彫刻を施した金の面(おもて)が一際輝く。
「きれー」
 その美しさと、何よりも三蔵から与えられた物だという事が嬉しくて、いつまでもその時計を見つめていた。


 三蔵法師によって、五行山の岩牢から連れ出された、忌まわしい金晴眼の妖児。
 異形を拒む寺院にとって、孫悟空という少年は何より受け入れ難い存在だった。当然、その風当たりは易しいはずも無く、保護者たる三蔵が不在の時は、輪をかけて嫌悪の感を露にされた。
 そして、三蔵法師帰院の今日。
 悟空は目覚めてから、一歩も外へは出掛けずに、じっと私室で三蔵の帰りを待っていた。
「早く帰ってこないかな…」
 声にいつもの覇気が無い。帰ってくる人が居ると解っていても、一人ぼっちの寂しさや心細さが、悟空の小さな心を蝕んだ。
「さんぞ…」
 ポケットから取り出したのは、大切な宝物。
 褪せる事のない金の輝きが、大好きな彼の人と重なって、悟空はぎゅっとそれを握り締めた。

「おい、食事だ」
 不意に開いた扉から、不機嫌な声が掛かる。
 テーブルに用意された食事に、悟空は小さく息を吐いた。三蔵が居ないのだから仕方が無いと解っている、皿に乗った僅かな料理と、一杯の水。
 それでも一言の不平も漏らさずに、悟空が膳を前にして手を合わせた時。
「おい、その懐中時計をどうした」
 僧徒の硬い声に、悟空が顔を上げた。
「三蔵に、貰ったんだけど」
「嘘を付くな!」
 怒声を浴びせ、悟空の首根っこを捉えると、僧徒はその勢いのまま悟空を私室から引き摺り出した。
「待って!嘘じゃねえよ、本当に三蔵に貰ったんだってば」
「貴様は、あれがどれ程の物なのか解っているのか」
「知らねえよ、知らねえけど、三蔵が」
「黙れっ!」
 そうして、僧正の前に連れ出された悟空は、板間に頭を押さえつけられ、
「三仏神様からの御品を汚すとは何たる悪行、断じて許すわけには参らん」
「三蔵様が居られないと思って、やはり尻尾を出したか」
「妖怪を野放しにしておくのは、危険極まりない事。速やかに幽閉すべきじゃ」
 口々に浴びせられる雑言に、歯を食いしばって耐えていた。

「ここならば易々と逃げ出す事はないだろう。だが、念には念を入れねばならん」
 寺院裏の座敷牢に連れてこられた悟空は、手足に枷を嵌められそこへ転がされた。
「僧正様それは?」
「さる高名な道士様から頂いた、封呪の護符じゃ」
 その顔に冷たい笑みを浮かべながら、僧正は手にした護符を悟空の喉元へ貼り付けた。途端、
「あぐ…ぁああ…や、とっ…て」
 首に巻きついた護符は、いくら悟空が掻き毟ろうとも剥がれる事が無く、じわじわとその気道を締め上げていった。
「このままでは死んでしまうのでは?」
「いやいや、死に至ることはござらん。が、それはそれでどうとでも、申し開きができるというもの」
「ほほほ、僧正様もお人が悪い」
「何、あの最高僧様ほどでは、ござらんよ」
 笑い合う声が次第に遠くなり、荒い息遣いだけが、閉ざされた座敷牢の中にいつまでも響いていた。



 寺院へ一歩近付く毎に、胸騒ぎが大きくなる。
 寺を出てから聞こえ続けた養い子の声が、小さくなり、そして消えた。
「くそったれ」
 悪態にいつもの余裕が無い事に、本人すら気付かない。
 湧き上がる焦燥に追い立てられるように、三蔵はただ歩みを進め山門をくぐった途端、取り巻く空気の不快感に、露骨に眉を顰めた。
「三蔵様の御帰院だ」
 門兵の声に、僧正たちが恭しく頭(こうべ)を垂れて三蔵を出迎えた。
「ご無事の帰院、何よりにございます。三蔵様」
「猿はどうした」
 常よりも硬い三蔵の声に、僧徒の間に走った微かな変化を、見逃すはずも無く。先よりも更に抑揚の無い声が、同じ言葉を繰り返した。
「はて、私どもは姿を見ておりませんが、大方どこぞで遊び呆けているのでしょう」
 僧正の声に、はっきりと動揺を感じ取った三蔵の瞳が、すっと細くなった。
「…バカが」
 それは誰に向けられたのか。
 踵を返し迷い無く裏手を目指した三蔵を、慌てた僧正らが追いかけた。
「お、お待ちください!三蔵様」
「三蔵様!」
 座敷牢の前、格子の奥に蹲る影を認め、三蔵は奥歯を噛み。そして、静かに振り返った。
「さん…ぞう…様」
「開けろ」
 地を這う声は、見た者全てを凍りつかせた。
「ここを開けろと言ったのが、聞こえなかったのか」
「ひ、ひぃぃぃ」
 三蔵の右方から轟いた一発の銃声、その足元から土煙が上がった。
「ここを開けろ」
「は、はい」
 僧正の傍仕えが、ガタガタと身を震わせながら、やっとの思いでその扉を開く。
「猿!」
 蹲る小さな身体は、辛うじてその生命(いのち)を繋いでいた。
「悟空」
 だが、耳元で名を呼んでも、目覚める気配は無い。冷たい身体を抱き上げ、
「ここまでの経緯を、洗いざらい話してもらうぞ」
 静かな憤怒を湛えた無情の瞳が、その場に居る者を貫いた。


「で、その金時計を、猿が盗んだと言う証は何処だ」
 黒檀の執務机に身を預け、腕を組んだ三蔵の数歩先、僧正と数名の僧徒が平伏していた。
「証も何も、三仏神様からの御恵贈の品である懐中時計を、妖怪…御子が持っているという事自体、由々しき問題ではございませんか」
 僧正の震える声に、三蔵はくっと喉を鳴らした。
「俺が、与えた。と言ったら」
 僧正は驚愕して、年若い最高僧を見上げた。
「玄奘三蔵が、私品を与えると言う事が何を意味するか、解らねえほど馬鹿でもあるまい」
 高僧が自ら銘入りの品を分け与える事は、その者に威光の拝借を許すと言う事。
 それは、三蔵法師がその寵愛を全て、悟空に注ぐと言う事。
「あの、御子を…三蔵様の寵児になさると…」
「三仏神の認許も貰った」
 そう言って、一枚の書状をその目前に落とした。
 目を通した僧正の顔から血の気が引いていく。
「明後日まで時間をくれてやる、俺に処分されるか、てめえで決めるか、よく考えるんだな」
 冷たく言い放ち、平伏す彼らを残して、三蔵は執務室を後にした。

 ランプのオレンジ色の中に在って、まだ白いその頬に三蔵はそっと手を添えた。
 未だ冷たい身体を温めるため、その横へ滑り込み薄い肩を抱き寄せる。
「悟空…」
 どこか祈るような響きを湛えて、養い子の名を呼んだ。と、その刹那、ぴくりと睫が震える。
 三蔵は思わず息を詰め、その顔を覗き込んだ。
 緩慢に一対の金瞳が開く。ゆっくりと瞬きを繰り返すうちに微かだった光が集まり、その瞳が目の前の人物を完全に認識した時、
「さん…ぞ」
 力のない声で呼ばれ、
「悟空」
 確かな声で呼び返した。
「辛い思いをさせたな、悟空」
 真っ直ぐに養い子を見つめ、白い額に口付けを施す。
 悟空は声も上げずに、その大きな金瞳を涙で濡らした。
「俺が居る、大丈夫だ」
 囁いて、口付けて、抱きしめて髪を梳く。
 腕の中から、安らかな寝息が聞こえてきた。



 扉が閉まる音に驚いて顔を上げた悟空は、その紫暗とまともにぶつかった。
 だが、彼のほうはそんな養い子の狼狽ぶりには目もくれずに、煙草を咥えると持っていた新聞を広げる。それから暫くの間、部屋には時計の規則的な音だけが響いていた。
 悟空は膝を抱え、手にしていた金時計を見つめ、小さく息を吐いた。と、
「まだ、持ってたのか」
 広げた新聞の向こうから、静かな声がした。逡巡して、
「俺の一番の宝物だもん」
 そう言って、悟空ははんなりと笑った。
「そうか」
 三蔵の答えは一言。それからまた、静かになった室内。悟空は、うんと背中を伸ばし、
「三蔵、先に寝るね」
 持っていた金時計を天鵞絨で大切に包むと、荷物の中に仕舞いこんだ。
「おやすみ、三蔵」
 ベッドへ片足を乗せた悟空の後ろで、三蔵が小さく呟いた。
「失くすなよ」
 その一言に、弾かれたように悟空が振り返った。が、三蔵は新聞を広げたまま。それでも、見えない彼の表情を感じ取った悟空は、輝くような笑顔を浮かべ、
「うん!」
 大きく頷いて、今度こそベッドへ潜り込んだ。

 安らかな寝顔は、出逢った頃から変わらない。
 この世で唯一、全てを与えてもいいと思える存在。全てを手に入れたいと思った存在。
「涌いてんな…」
 小さく笑ってそっと、薄く開いた口唇に己を重ねた。




花淋さま/Reincarnation


花淋さまのサイトから、またまたいただいてきちゃいました。59dayのフリー小説。
…だって、こんなの読んだら欲しくなりますって。
三蔵サマ、そんなでかでかと名前を書いて自分のモノだと主張しなくても…(笑)
「オマケもどうぞ」を言ってもらえたので、お言葉に甘えてblogに載っていたオマケも → こちら
花淋さま、いつもいつもありがとうございます。またよろしくお願いします。(おいっ)