たいせつ(1)


「三蔵っ!!」
 赤く染まった白い法衣。
 崖をほとんど滑り落ちるように降りながら、悟空は視野がどんどん狭くなっていくのを感じていた。あたりは闇に沈み、三蔵の姿しか見えない。
「三蔵!」
 白い法衣と同じくらい白い顔。もともと肌の白い人だったけど、この白さは異様だ。
「三蔵、三蔵、三蔵!」
 ようやくそばまで行って、屈みこむ。呼びかける言葉は名前だけ。それ以外の言葉は出てこない。だけど、それに答える声はなく、強い光を湛えた瞳は閉じられたまま。
 どくどくと、脈打つ音が頭の中に反響する。血。赤い血……。
 穢れない白い衣を赤く染める血。
 目の前で崩れ落ちるように倒れた人。
 大好きだった優しい人。
 あれは――。
「うわあぁぁぁ!!」
 獣のような咆哮をあげて、頭を抱え、悟空は地面にうずくまった。己の体の奥深くで、何かが頭をもたげた。強い、異質な、何か。
 それはどんどんと膨れ上がり、悟空を侵食していく。巨大な力に圧倒され、ふっと意識を手放す、その刹那。悟空の手に何かが触れた。
 それは手。冷たい手。
 はじかれたように悟空は顔をあげた。三蔵の手が悟空の手に触れていた。
「三蔵!」
「……泣くな」
 掠れたような声が三蔵の口から漏れた。苦痛に歪みながらも、その目は悟空を見据えていた。
「三蔵……。やだよ。置いてかないで。置いてっちゃ、やだよ……」
 三蔵に呼びかけられたことで、ようやく己を取り戻したのか、悟空は三蔵に取りすがり泣きながら訴えた。
 三蔵の口元に苦笑めいたものが浮かんだ。
「置いてかねぇよ。前にも言っただろうが……」
 それだけ言うと、三蔵の手から力が抜け、目が閉じられた。
「三蔵ぉ!」
 悟空の絶叫が響き渡った。

 慶雲院。東方一を誇るその寺院は、血まみれの年若い三蔵法師が運び込まれたことで、上から下まで蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 ひとまず三蔵は私室に寝かされ、応急手当のため、悟空はそのそばから離された。と言っても部屋から出そうとすると暴れるので、部屋の中の邪魔にならないところで放っておかれた。
 やがて、ふっと三蔵が目を開けた。
「三蔵様っ!」
「おぉ、三蔵様が!」
「気が付かれましたか!」
 枕元で僧達が競い合うかのように次々と声をあげた。
「三蔵っ!」
 その騒ぎに、部屋の隅で膝を抱えて丸くなっていた悟空は、ぱっと顔をあげると、長い髪を揺らして三蔵の元に走り寄った。そのまま、抱きつこうとして――。
 バシッ!
 伸ばした手は払われた。
「さん……ぞ……?」
 悟空は、驚いたように動きを止めた。
 三蔵は肘を支えに上半身を少し浮かした格好で、悟空を、そして他の僧侶達を睨みつけていた。まるで手負いの獣のような敵意がその目に浮かんでいる。
「お前達は、誰だ?」
 低い威嚇をするかのような声が漏れた。
「三蔵様、傷に障ります。とにかく横になってください」
「そうです。すぐに医師が参ります。どうか、三蔵様」
 僧侶達が宥めるように言い、三蔵の眼光はさらに険しくなった。
「これは、何の茶番だ! 『三蔵』と呼ばれていいのはお師匠さまだけだ!」
 鋭く言い放った三蔵の言葉に、沈黙が降りた。

 夜が来た。
 闇の中で、三蔵は何度目かの寝返りを打った。体は眠りを欲しているはずだったが、頭は冴え、ずっと床に入っているにも関わらず、一睡もできなかった。
 重く気怠く、傷のせいで少し熱もあるようだった。
 体を動かすたびに、激痛が走ったが、その痛みに『これは現実なのだ』と告げられているような気がした。
 気がついたら、知らない僧達に取り囲まれ、『三蔵』と呼ばれていた。
 そして、その前の記憶は――。
「お師匠さま……」
 思わず呟き声が漏れた。
 柔らかい笑みを浮かべる光明三蔵の顔が、鮮やかに脳裏に浮かび上がる。
 その笑顔を見たのはつい昨日のような気がするのに。
 それは、おおよそ七年前の記憶。
 そう。三蔵の頭の中からは、光明が亡くなる直前から今までの間の記憶が完全に抜け落ちていた。
 だから、目を覚ました直後はちょっとした恐慌状態だった。
 その性格ゆえ、それは騒ぎ立てることではなく、鋭い視線であたりを威嚇することに表れた。
 眼光の鋭さに気圧され、どれだけ三蔵の心の中が揺れているか、僧達には窺い知ることはできなかった。とはいえ、さすがに様子がおかしいと思ったのだろう。三蔵が医師の手当てを受けていると、この寺の僧正だという老人がやってきた。どうやら僧達に呼ばれたらしい。
 手当てが終わり、医師が退出すると、三蔵は老人と話した。
 老人は伊達に『僧正』をしている人物ではなく、三蔵の困惑や怒りを上手く受け止めて逸らした。相手をみて礼儀を使い分ける三蔵の方も、やがて落ち着いて話ができるようになった。
 そして、自分に七年の記憶の抜けがあることがわかった。
 その間に、光明三蔵が亡くなり、自分がその後を継いだことも。
 玄奘三蔵。それが今の自分の名だということも。――江流ではなく。
 医師が呼び戻され、記憶を失くしたことについて、もう一度診察を受けた。
 記憶をなくした原因については、三蔵自身が覚えていないのだから仕方のないことだが、よくわからなかった。ただ状況から言って、法事の帰り道、何者かに襲われたらしいことはわかっていた。供をしていた僧達は死体で発見され、三蔵は崖下に横たわっていた。記憶がなくなったのは、崖から落ちる時に頭を打ったからかもしれないし、他に原因があるかもしれなかった。
 そして、肝心の記憶を取り戻す方法だが、こちらの方はもっとわからなかった。とりあえず怪我をしていることもあって、絶対安静と言い渡された。記憶はのんびりと過ごしているうちに戻るかもしれない――。
 考えようとしているわけではないが、どうしてもこの七年の間に起こったことについて考えてしまう。
 なかでも光明が亡くなったことについて。
 僧正は詳しくは話してくれなかった。というより、人伝にしか聞いていないので、話したところで憶測でしかないと言われた。だから事実のみを告げられた。
 もう、光明はいないのだ。
 その事実はあまりにも重く、受け入れがたかった。
 失くした七年の記憶自体は特に惜しいとは思わなかった。
 光明が亡くなって自分が三蔵になる記憶に価値などあるのだろうか。
 キィ。
 微かに扉が軋む音がした。反射的にそちらに目をやると、子供がいた。室内は暗かったが、闇に慣れた目は、その子供が部屋の中に入ってくるのを捕えた。後ろ手で扉を閉めると、ごく自然な様子で寝台に近付いてきた。
 間近に来た子供は三蔵が起きているのに気付いて、ちょっと驚いたようだが、すっと手を伸ばして三蔵の額に触れた。
 昼間、部屋にいた子供だとわかった。医師が来たときに僧達は追い出されたが、この子供はそばにいると言い張った。そう言えば、僧正と話をしていたときもいたように思う。あまりに衝撃的なことを聞かされて、よくは覚えていないが。
 不思議なことに、これだけ近くに寄られても、触れられても、三蔵の中にその子供に対する嫌悪感は涌いてこなかった。たいてい触ってこようとする輩は、それが大人であれ子供であれ、邪なものが滲み出ていて虫唾が走るというのに。
「お前、誰だ?」
 三蔵は単純に知らないから尋ねただけだったが、この問いに子供はひどく傷ついたような顔をした。その表情になぜか三蔵の胸が少し重くなった。そういえば、昼間、手を払ったときも子供はこんな表情をしていた。
「……悟空」
 ポツリと子供は答えた。
「熱、あるね。薬、ちゃんと飲まなくちゃ駄目だよ」
 そして、額から手を離し、子供は寝台の脇に置かれている薬をとりあげた。
「ダルい」
 天井を見上げて三蔵は答えた。その視界に子供の顔が入ってきた。何を見下ろしているんだと思っているうちにその顔が段々近付いてきて、柔らかな感触が唇に触れた。喉を冷たい水が通りすぎ、三蔵の目が驚きに見開かれた。
「お前、今、何を……!」
 半分起き上がって口を押さえ、三蔵は子供を睨みつけた。あまりの驚きに痛みも感じなかった。子供はキョトンとした顔をして三蔵の方を見ている。今の行為に何の疑問も持っていないようだ。
「どうしたの? この間、三蔵が俺にしてくれたことをしたんだけど……」
 三蔵の顔から血の気が引いた。この七年の間、自分の身に何が起こったのだろうか。こんな子供にあんな行為をするようになるなんて――。
「あぁ、そうか。覚えてないんだっけ。この間、風邪ひいて苦しくて薬が飲めなかった時に、三蔵があぁやって飲ましてくれたんだけど」
 そう続けられて、三蔵は脱力しそうになった。
 薬を飲ませる。子供は、先程の行為を本気でそれだけのためだと思っているようだ。
 子供に邪な考えはまるでなかったことに安堵したが、自分が薬を飲ませるためにそういう手段をとったと言われたことに気付いて、複雑な気分になった。
 何も口移しで飲ませなくても良いのではないか? 薬を飲ませるだけならば、他にも手段はあるだろうに。
 これは一体どういうことだろう。
 黙り込んでしまった三蔵に子供がオロオロとした様子で言った。
「三蔵、大丈夫? 俺、下手だった?」
「……」
 今度こそ、三蔵の力が抜けた。思わず、寝台に倒れこむ。
「三蔵。三蔵、大丈夫? どこか痛い?」
 慌てた様子で子供が寄ってきた。心配そうな顔で三蔵を見下ろしている。
「……疲れた」
 答えたことに安心したのか、子供はほっと一息つくと、三蔵の布団を掛け直した。
「眠るまでそばにいるから、大丈夫だよ」
 子供の言葉に、何が大丈夫なんだろうと思ったが、三蔵は口にしなかった。なんだが、コワイことを言われそうな気がした。例えば、この子供が風邪をひいた時に眠るまでそばにいてやったとか……。
「おやすみなさい」
 パタパタと布団をたたいて寝心地をよくしてから、子供が言った。三蔵は目を閉じた。