たいせつ(2)


 目を開けると、朝だった。
 三蔵は、一瞬、自分がどこにいるかわからなかったが、床に座り込み、寝台の上に頭を載せて眠り込んでいる子供の姿を見て、思い出した。
 いろいろと複雑なことまでいっぺんに思い出したが、そばにいるせいか、気がつくと傍らの子供のことを考えていた。
 この子供は誰だろう。
 名前は、昨夜聞いた。だが、自分との関係がわからなかった。
 どうやら、小坊主とかそういう寺院の関係者ではないのは、服装からも、態度からもわかった。寺院の関係者ならば『三蔵』にあんな風に接したりしない。ましてや――。
 三蔵は口を押さえた。昨夜の柔らかな感触が蘇ってきた。頬に熱が宿るのがわかった。
 あの感触は、決して嫌なものではなかった。それは不思議だった。
 人にただ触れられるのさえ、その熱が伝わってきて気持ち悪いと感じるのに。
 なのに、あんな――。
 でもだからといって、そういう関係だというわけでもなさそうだ。
 頭に浮かんだ考えを打ち消すように、三蔵はぶんぶんと頭を振った。
 いくらなんでも、七年後の自分がそんな趣味に走っているとは思いたくなかった。散々光明との間を邪推されて、頭にきていたというのに。
 だが、一体、この子供は何者だろう。
 見ていると、子供が身じろぎをした。どうやら、起きたらしい。ゆっくりと寝台から頭があがった。
「うみゅう」
 なんだが、動物の鳴き声みたいな可愛らしい声があがった。床に座り込んだまま、グーにした拳で、こしこしと目をこすっている。
 小動物みてぇ。
 三蔵の口に思わず笑みが浮かんだ。
 やがて、子供は顔をあげた。そして、三蔵をみつけると、嬉しそうに笑った。
「おはよー、さんぞー」
 だが、挨拶がすぐに三蔵から返ってこなかったことで、今の三蔵が自分を覚えていないことを思い出したのか、その表情はすっと消え、なんだかヘンな表情になった。
 三蔵が、言葉をかけようとしたとき、ノックの音が響いた。
 答えると、朝食の膳を持った小坊主が入ってきた。そして、子供に目をとめると微かに眉をひそめた。
「三蔵様、朝食です」
 小坊主は、礼儀正しく告げると、寝台の傍らに朝食を置いた。
 子供がその様子を無言で見守っていた。
「あなたの分は、お部屋の前に置いておきました」
 小坊主が子供の方を見ずに言った。
「三蔵様は、お怪我をなさっているのですから、あまりお手を煩わせないようにしてください。給仕はわたしがしますので」
 その言葉に子供は諦めたように立ち上がると、扉の方に向かった。
「また後でね、三蔵」
 子供はそう告げると、相変わらずヘンな表情を浮かべたまま、部屋から出て行った。

 そしてまた夜になった。
 三蔵はまた眠れぬまま、床についていた。昨夜、あの子供がきて、目を閉じたときは眠れると思っていなかったのに、いつの間にか眠っていた。今日は、とりあえず考えても仕方ないのだと思い、眠ろうと思って目を閉じたのに眠れない。
 ため息が出そうになった。
 と、カタンという音がした。
「……お前、どこから入って来てるんだ」
 音のした方を見て、三蔵は呆れたような声をあげた。そこは窓で、ちょうど子供が窓枠を乗り越えようとしていた。
 部屋に入ってきた子供は、無言で俯いて三蔵の方を見ようとしない。
「悟空」
 名前を呼んでやると、ぱっと顔があがった。
「寒い。閉めろ」
 窓の方を見て言うと、子供は慌てたように窓を閉めた。それから困ったような表情を浮かべて三蔵の方を見た。
「来るなら、昼間、堂々と扉から入ってくればいいだろうが」
 三蔵の言葉に、子供はまた俯いた。それから、小さな声で言った。
「だって、近づけないから。三蔵を休ませてあげなさいって、皆、言うし。でも……」
 子供は顔をあげた。すがりつくような目をしているのがわかった。
「三蔵がいるのに、全然、話ができないと、ここがぎゅってなって――」
 そう言って、子供が抑えたのはお腹だった。胸ではないところが、この子供らしいと三蔵は思い、場違いな笑みが浮かんでくるのを慌てて押さえた。
「いつもなら、一緒にご飯を食べてくれるから、どんなに三蔵が忙しくても話ができるんで平気なんだけど」
 それで、今朝、ヘンな顔をしていたのだとわかった。
 どうやら自分はこの子供の世話をしているらしい、というのが子供の言葉からわかった。どうしてそうなったのかは、当然わからない。わからないが、世話をしている以上、責任がある。こんな助けを求めるような態度を示されたら、それに応えねばならぬだろう。
「……明日から一緒に食べてやるよ」
 そう告げると、子供は驚いたような表情になり、それから嬉しそうに笑った。そして、とことこと寝台に近付いてきた。
「三蔵。一緒に寝てもいい?」
 子供の言葉に三蔵は眉をひそめた。
 キスの意味も知らないような子供だ。「寝る」は本当に「眠る」ことだろう。
 だが、子供、といっても、添い寝が必要なほどの子供ではない。
「お前、いくつだ」
「えっと、たぶん十五」
 その答えに三蔵の眉間の皺が深くなった。どう見ても十歳くらいにしか見えない。それから先程の答えに奇妙な部分があるのに気がついた。
「……たぶん、ってのは」
「俺、五行山ってトコにずっと封印されていたの。三蔵が助けてくれて、ここに連れてきてくれた。だから、本当の歳は知らない」
 何やら複雑な事情がありそうだが、それはひとまず置いておくことにした。
「でも、一応、十五なんだろう? 一緒に寝てくれっていう歳じゃないだろう」
「でも、すっごい怖い時とか、三蔵、一緒に寝てくれたから」
 子供は困ったようにそう言った。
 逡巡して答えずにいると、子供は肩を落とした。
「ごめん。困らせるつもりはなかったんだ。もう、行くね」
 その様子に三蔵はため息をついた。そして、寝台の上で体をずらして、布団をめくりあげてやった。
「入るなら、さっさとしろ」
 他人の体温を感じながら眠るなんて、真っ平だった。だが、あんな表情をされて、いわれもない罪悪感に悩まされるのはもっと嫌だと思った。
 子供が布団の中に潜り込んできた。触れたところから伝わる体温は、予想通り自分より少し高い。だが、不快ではなかった。目を閉じると、眠れそうな気がした。
「……三蔵」
 胸元で声がした。
「何だ?」
「三蔵って呼ばない方がいい?」
 突然、わけのわからないことを言われて、三蔵は閉じていた目を開けた。至近距離に子供の顔があり、その目は真剣な光を湛えて、三蔵を見上げていた。
「三蔵が、三蔵って呼んで欲しくないなら、俺、三蔵って呼ばない。俺にとっては、三蔵は三蔵だけど、でも三蔵が嫌なら呼ばないよ」
「……何が言いたい?」
「ごめん。俺、昼間、三蔵のこと、見てた。覗き見みたいなこと、三蔵は嫌いだって知ってたけど」
 そう言って一度俯くが、また真剣な表情で三蔵の方を見る。
「三蔵、『三蔵さま』って呼ばれるの、スゴク嫌そうに見えた。三蔵にとって、三蔵はお師匠さまだけって言ってたし。俺、三蔵とジィちゃんの話、よくわかんなかったけど……。えっと、江流? そう呼んで欲しいなら、そう呼ぶよ」
 三蔵は、奇妙な顔で子供を見下ろした。
 この子供は見かけ通りの子供ではないと思った。
 三蔵という名。師匠から受け継いだというその重み。
 七年もたてば、その重みに慣れることもあるだろう。だが、今の三蔵にとっては、青天の霹靂というべきことだった。何の覚悟もできていないのに、いきなり三蔵と呼ばれているなんて、その名の重さに押し潰されそうになる。それに三蔵と呼ばれることは嫌でも光明がもういないという事実をつきつけられるということだった。
 だが、内心でどう思おうと、それを表に出しているつもりはなかった。
 いくら俗世と縁を切ったといっても、功名心や嫉妬心を綺麗さっぱり捨てられる人間などいない。若くして『三蔵』を継いだ自分を快く思っていない連中は大勢いるだろう。そういった連中に舐められるわけにはいかなかった。
 舐められればそれで終わりだということを、長くはないが決して平穏ではなかった人生経験上、三蔵は嫌という程知っていた。
 だから『三蔵』と呼ばれても当然のように振舞っていた。きっと、僧達は三蔵の胸のうちなどまったくわかっていないだろう。
 だが、この子供は違った。
 もちろん、三蔵が考えていることを全部わかっているわけではないだろう。ただ『三蔵さま』と呼ばれる度に感じる嫌な気持ちを敏感に察したのだろう。
「別に、三蔵でいい」
 自分の中で過ぎた時間が失われようと、光明が亡くなり、自分が三蔵の名を継いだ事実は変わらない。
 ならば、事実は受け入れなくてはならない。それがどんなに苦いことでも。
 たぶん、それは光明の願いでもあるはずだから。
 それに、この子供に『三蔵』と呼ばれるのは、嫌ではなかった。
「でも……」
「お前に『三蔵』と呼ばれるのも嫌そうに見えたか?」
 三蔵の言葉に子供は目をぱちくりとさせた。それから、記憶を辿っているような表情になり、ぶんぶんと首が横に振られた。
「なら、いいだろう」
 子供が三蔵というのを称号ではなく、名前として呼んでいるのは、最初からわかっていた。それは、光明に江流と呼ばれるのと同じことだった。
「もう、寝ろ」
 三蔵はそう言って、目を閉じた。心地よい眠りが押し寄せてくるのがわかった。