お留守番(前)


――帰ってくるのは、三日後の夜だ。
 三蔵がそう言って、どこかの寺に出かけていってから、今日で二日目。だから、明日には帰ってくる。でも……。
 悟空は、大樹に背中を預けるとそのままずりずりと座り込んだ。足を投げ出して、空を見上げる。暗い空。夜なのだから暗いのは仕方ないのだが、雲がかかって月も星も見えないせいで一段と暗い。まるで自分の心の中のようだ、とぼんやりと考えた。
 夕方は晴れていたのに、な。
 寺院の窓から、夕陽が沈むのを眺めていた。別に夕焼けを見ようと思っていたわけではない。何もすることがなくただ何となく眺めていただけだ。
 だって、何をしても楽しくなかったから。
 あたりを赤く染め上げた夕陽は完全に西の空に沈み、名残のオレンジ色を背景に寺院の木々が黒く、まるで影絵のように見えた。東の空は、もう夜の気配を感じさせる濃い藍色で、空は繊細な色のグラデーションを見せていた。
 いつもなら感嘆の声をあげてもおかしくないその美しい光景を見ても、何も感じなかった。
 三蔵がいない。
 ただそれだけで、世界は色を失う。
 やがてオレンジ色は薄くなり、地上に紫が降りてきた。ありとあらゆるものが紫に包まれた。夜の闇が落ちる、その少し前。昼と夜の狭間。
 悟空ははじかれたように窓から飛び出した。
 紫。三蔵の瞳の色。
 捜せば三蔵が見つかるかもしれないと思った。
 なぜそんな風に思ったのか、今となってはわからない。ただ、その紫だけが悟空を突き動かした。
 だけどもとより見つかるはずもなく、ずいぶん長いこと歩きまわったあげく座り込んで、もうすっかり闇に覆われていつの間にか雲がかかった空を見あげていた。
 明日の夜には三蔵は帰ってくる。さんざん言い聞かされたからそれはわかっているけど、こんな気持ちを抱えたまま、明日の夜まで待てるだろうか。
 だって、明日の夜なんて永遠と一緒だ。
 あの岩牢にいるときは寂しかった。ずっと一人で、寂しかった。
 でも、何故だろう。今の方がもっと寂しい。あれ以上の孤独があるだろうかと思っていたのに。
 悟空は膝を引き寄せると、そのうえで手を組んでそこに額を載せた。
 ふっと香りが漂った。
「さんぞう、さんぞう、さんぞう……」
 目を閉じて一生懸命その姿を思い浮かべようとする。三蔵の姿、三蔵の顔、三蔵の髪、三蔵の目、そして三蔵の匂い。
「さんぞう」
 何度目かの呟きとともに思わず手に力を込めそうになって、慌てて押し留めた。顔をあげ、組んだ手の中に持っていたものを確かめて、ほっと一息つく。
 それは、煙草の箱。出がけに三蔵が放って寄越したもの。「食うなよ」という余計な一言とともに。
 三蔵がいつも吸っているマルボロ。三蔵に染みついている香り。
 三蔵の匂いがすれば、少しは安心すると思ったのだろうか。
 ホント、どーぶつだと思っている。
 悟空は無意識のうちに笑みを浮かべた。笑みというよりも泣きそうな表情と言った方が良いかもしれないが。
 でも、やっぱり違う。本物の匂いとは全然違うんだ。
 光が射してきた。煙草の箱に光があたり、悟空はふと視線をあげた。
 雲が切れ、目の前に月が浮かんでいた。そして、月を従えるようにこちらに向かってくる人影。
「……!」
 声にならない声。あまりにも驚いて、体が固まったように動かなくなる。
「なんでこんなところにいるんだ」
 悟空の目の前まで歩いてきた人物が言葉を発した。悟空はただただ目を見開いて見つめていた。
 どこかで、鳥の啼き声がした。辺りの闇が徐々に退いていく。
「二日で人語を忘れたか?」
 口の片端を吊り上がり、皮肉めいた笑いがその顔に浮かんでいくのが見えた。
「さんぞ……?」
 ずっと見たかったその顔。その姿。
 夢、かな。
 悟空は、頭の片隅で思った。もしかしたら、自分でも知らないうちに眠ってしまったのかもしれない。だとしても……。
「夢でもいいや」
 もうこのまま目を覚まさずに眠っていよう――。
「寝ぼけてるのか?」
 どこか甘美な考えは、思い切り不機嫌な声で破れた。
 悟空はまじまじと目の前の人物を見つめ直した。
「さんぞう? 本物?」
「本物と偽者の区別もつかんのか、お前は」
 三蔵の手が伸びてきて、悟空の手を掴んだ。
「え?」
 三蔵は、びっくりして見上げる悟空の手から煙草を取り上げると、手を離した。それから口に煙草をくわえ、懐からライターを取り出して火をつけた。
「帰るぞ」
 そしてくるりと向きをかえると、歩き出した。二、三歩行ったところで立ち止まり、振り返った。
「どうした、悟空」
 その声に悟空は立ち上がって、三蔵の胸に飛び込んだ。