遠い昔。
こんな風に、気がつくとどこだかわからない場所で泣いていたことがあった。
暗い。暗い場所。
ただ一人、闇の中に取り残されてしまったような感じがした。
とても怖かった。
でも。
突然、金色の光が現れた。
そして、ここにいる、と言ってくれた。
手を伸ばすと、しっかりと抱きしめてくれた。
ずっと、夢だと思っていた。
夢でもいいと思っていた。夢でも、その言葉と抱きしめられたときの暖かさだけが支えになった。
その『金色』が本当に存在していて、そのうえ、闇の中から救い出してくれるとは思ってもみなかった。
嬉しかった。
とても、嬉しかった。
だけど。
あの言葉は、自分に向けられたものではないとわかった。
ずっと一緒。
それは、あの写真の子に向かって言った言葉。
わかっていたはずだ。
最初から、誰もいないのだと。
どうしてだろう。
どうして、こんなにも望まれているあの子がいないのに。
どうして。
最初から、誰もいないのに。
望んでくれる人など、誰もいないのに。
それなのに、どうして――。
Warmth V
「――くうっ! 悟空!」
激しく揺さぶられて、悟空の意識は現実に戻ってきた。
ゆっくりと目の焦点が合い、そして。
「さ……んぞ……?」
目の前にいる三蔵の姿に、悟空はどこか呆然としたような声をあげた。
三蔵が育ったという家を飛び出したあと、悟空はマンションにと帰ってきていた。
三蔵がここにいるということは、後を追ってきたのだろうか。
「なん……で?」
「何で、じゃねぇよ。お前、何度呼んでも反応しねぇから、本当にどうしようかと――」
きつく腕の中にと抱きしめられる。
あまりに強い力に、息もできない。
こんな風に抱きしめられたら、大切だと言われていると誤解しそうだ。
悟空は三蔵の腕の中でもがいた。
「あぁ、悪い」
そんな悟空の様子を苦しそうだと思ったのか、三蔵の腕の力が緩んだ。その隙に、悟空は三蔵を押しやって抱擁そのものから抜け出した。
「悟空?」
いつもならば、抱きしめられると幸せそうな顔をして腕の中に収まっていた。それなのに。
三蔵が訝しげな声をあげた。
「お前、あいつに何か言われたのか?」
伸びてくる手を避けようと、悟空は後ろに下がる。
「悟空」
「ごめんなさい……」
三蔵の言葉を遮るように、悟空は俯いて言った。
「俺、知らなくて……。あの子のこと、知らなくて。ごめんなさい」
「悟空、お前、何を言って――」
「ごめんなさい……」
ごめんなさい。
その言葉しか繰り返すことができない。
そばにいることで、ずっと傷つけてきた。知らずにずっと。辛い記憶を思い出させて。
「ごめん……」
「やめろ。お前が謝ることなんか、ひとつもねぇだろうが」
「でも、俺はあの子とは違うから。だから、余計にあの子のことを思い出させる。そんな辛い思いさせていたなんて知らなかったから。俺が、全部――姿だけじゃなくて、全部、あの子と同じだったら良かったんだろうけど……」
「全部同じになれるわけねぇだろうが。それに同じであることに何の意味がある? お前と斉天が違うことなんて、最初から知ってる」
怒ったように三蔵が悟空の言葉を遮った。
「最初からお前を斉天の代わりにしようなんて思ってねぇよ」
「そう……だよね……。俺じゃ、意味がないよね」
悟空は俯いた。
「俺が代わりにいなくなれば良かったのに」
ポツリと呟く。
「悟空っ!」
反射的に三蔵が鋭い声をあげた。手を伸ばして、悟空の両腕を掴む。
強く掴まれた手の痛みだけではなく、悟空は顔を歪ませた。
「だって、誰もいないのに。望まれてなどいないのに。なのに、どうして俺がここにいて、あの子が――」
「誰もいなくねぇだろうが。ここにいるだろう、俺が。俺が、お前にここにいて欲しいと望んでいるだろうが」
ここにいる。
その言葉は――。
「それは、俺への言葉じゃない」
さらに苦しそうな顔をして、悟空は言葉を継ぐ。
「三蔵、また間違えてる。俺は、あの子じゃない」
「またも何も、お前と斉天が違うことは最初からわかっていると……」
言いかけて、三蔵は言葉を切った。何かを思い出したかのように。
悟空の体が震えだした。止めようとしても止めることはできなかった。
これから言われる言葉を予見して。
あれは、自分に向けられた言葉ではなかったのだと。
ずっと一緒にいたいと思っていたのは――。
悟空はぎゅっと目を瞑り、今までで一番痛い言葉を待った。
たが、与えられたのは言葉ではなかった。
「さん……」
優しい抱擁。
「あの時、震えていたのは……。こんな風に震えて泣いていたのはお前なのか?」
耳元で聞こえた静かな声に、悟空は目を開けた。
「ずっと気にかかっていた。斉天だった。だが、斉天ではないと思った。あれはお前なのか?」
頬に手を添えて、見つめてくる深い紫の瞳。
綺麗――。
その綺麗な瞳に目を奪われる。
あまりにも綺麗で。
何もかもが。
震えていた理由さえも、悟空の頭から消えた。
「今となってはどちらでも構わない。今は――今、欲しいのは――」
ゆっくりと三蔵の顔が近づいてきた。
それを、ただ黙って悟空は見つめていた。
そして。
「さんぞ……?」
柔らかな感触に我に返り、悟空は口元を押さえ、驚きの表情を浮かべた。
そっと三蔵の唇が触れていったその場所は。
「斉天にこんなことをしようと思ったことは一度もねぇよ」
囁き声とともに手をどかされ、もう一度、唇が塞がれる。
「さん……」
声は唇に遮られて、意味をなさない。
何度も触れてくる唇が、その熱さが思考を奪っていく。
「ん……」
微かな吐息にも似た声が悟空の口から漏れる。
それさえも奪うように、さらに深く、三蔵が唇を重ねてくる。
幾度となく繰り返されるキスに、悟空の体から力が抜けていく。
「悟空……」
優しい声とともに、支えられるようにして三蔵の方に引き寄せられた。
キスは羽のように軽く触れてくるものに変わるが、すぐにまた熱を持ち、悟空はその熱を受け入れようとするかのように薄く唇を開いた。
だが、不意に素肌に自分とは違う体温を感じ。
「……やっ!」
夢から覚めたかのようにはっとして、悟空は三蔵を押し返した。
とはいえ、キスの余韻が残る体には力が入らない。細やかな抵抗は受け止められ、さらに内へと抱き込まれて終わる。
「や、駄目。離して」
それでも離れようともがいていると、耳元で囁き声がした。
「何故?」
思わず顔をあげると、また紫暗の瞳とぶつかった。
綺麗。本当に綺麗――。
息を止めて見つめる。魅入られたかのように動けない。
その綺麗な顔が近づいてきても。
やがて唇に熱を感じても。
駄目、なのに。
どうしても拒むことはできない。
もとめているから。本当は、ずっともとめていたから。
触れてほしい、と。もっと近くに、と。
だけど、それは……。
「悟空?」
ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
驚いたように三蔵の唇が離れていき、優しく抱きしめられた。ゆっくりと、落ち着かせようとするかのように背中を撫でてくれる。
縋りついてしまいそうだった。
そんなことを望む浅ましい自分。
だから、駄目なのに。触れてはいけないのに。
泣き声を押し殺し、顔を歪めて、悟空は再び三蔵を押しやった。
「悟空、何故だ?」
だが、その手を掴まれて、また引き寄せられる。
「触れれば応えるのに、何故、拒もうとする?」
覗き込んでくる視線を避けようとするかのように、悟空は顔を伏せ、いやいやをするように頭を振った。
「悟空」
逃がさないとでもいうように、三蔵の片手が背中に回る。
「拒むな。素直に受け入れろ」
すっと、上着の裾をたくし上げられ、もう片方の手が肌を滑っていく。
「やっ!」
悟空は身を竦ませた。
「駄目。汚いっ!」
その言葉に三蔵の手が止まった。
「ごめん。ごめんなさい……」
抑えきれぬ嗚咽が悟空の口から漏れる。
「三蔵、忘れているから、本当は俺がちゃんと思い出させてあげなきゃいけないのに、できなくて、ごめんなさい……」
「何を……」
「俺、汚いから……。触っちゃ、駄目なんだよ。本当は、抱きしめてもらうことだって、いけないことなのに」
悟空はそう言うと、大きく息をついて涙を止めようとする。
「ごめんなさい。こんなに綺麗なのに、穢すところだった」
「言っていることの意味がわかんねぇよ」
身を引こうとする悟空を、許さぬように腕の中に閉じ込めて、三蔵が苛立ったような声をあげた。
「汚いって、何が。どこが」
「俺に決まってるじゃないか。だって……」
悟空の体が微かに震える。
「だって、何人の人と寝たかなんてわからない。知らない人とだって平気で……」
続けようとした告白は、突然、唇を塞がれたことで妨げられる。
「それは、そうしなくちゃ生きていけなかったからだろう」
深い紫の目に浮かぶのは――痛み。
同情とか憐れみとか、そういった見慣れた類のものではなく、純粋な痛み。
まるで悟空と心を分け合っているかのような。
「抱かれることが汚れることならば、抱くことだって汚れることだろう。俺だって何人抱いたかなんて覚えてねぇよ。ただ欲求に従うためだとか、仕事だとか。何にせよ、ロクな理由なんてないんだから、汚れているっていうなら俺の方だろう」
「違う。三蔵は――三蔵は綺麗だよ」
「綺麗じゃねぇよ。綺麗であるわけがない」
「そんなことない。そんなこと、絶対ない。だって、三蔵は綺麗だもの。そんなの、汚れていることにならない」
「なら、お前だって同じことだろう」
三蔵の言葉に悟空は目を見開いた。ゆっくりと優しく三蔵の唇がその目の上にと降りてくる。
「お前の言う綺麗、汚いは観念的なものだ。お前の思い込みだよ」
「ちが……」
「違わねぇよ。ま、どうでもいいが、そんなことは」
また泣き出しそうな顔にいくつもキスの雨を降らせていた三蔵の動きが不意に止まった。
「そういうのはどうでもいいんだよ」
まっすぐに、悟空と視線を合わせてくる。
「俺はお前を抱きたい」
はっきりと告げられる言葉。
「それだけだ。それだけに対して答えろ。他は何も考えるな」
そっと頬に両手が添えられる。
「お前はどうしたい?」
□ ■ □
「あ……や……」
熱い。
肌を辿る指も唇も。触れ合う肌も。何もかも。
そして、呼応するかのように内側に灯る熱。
それが広がる。侵食していく。
「や……やだ……」
無意識のうちに悟空の口から呟き声が漏れた。
「怖い」
その言葉が耳に入ったのだろう。不意に三蔵の動きが止まった。悟空ははっとして口を押さえた。
怖い。
口にするつもりはなかった。
だいたい、信じてもらえるわけもなかろう。
初めてでもあるまいし、行為の最中に怖いと言っても。
「俺が怖いのか?」
だが、汗で額に張りついた髪を剥がすように、優しく撫でてくれながら三蔵が言う。
「違う」
思いもかけない問いかけを悟空は瞬時に否定した。
「じゃあ、何が怖い?」
「それ……は……」
「別に怒ったりしねぇよ。言ってみろ。言わなくちゃ、わからん」
「……よくわかんないけど、三蔵に触られると、体の内側が熱くなる。そんなのは知らない……。だから怖い。自分が何か知らないものに変わってしまいそうで……」
一生懸命考えながら、自分の内に生まれたものについて説明すると、ふっと三蔵が笑みを浮かべた。
「お前、それは感じてるって言われているとしか思えねぇよ」
「違う。気持ちいいっていうのとは違くて……」
うまく説明できずに、結局わかってもらえないのだと、悟空は顔を伏せた。
「基本的には違わねぇと思うが、言葉で説明しても始まらないだろ」
三蔵の唇が悟空の耳のすぐ下に落ちてきた。
「んっ……」
きつく吸われて痛みを感じる。痛い、のだが同時に何か甘美な感じがする。
「三蔵……」
声に潜む頼りなげな調子に気づいたのか、三蔵が安心させるかのようにシーツの海に落ちている悟空の手に指を絡めた。
「何も怖いものなんてねぇよ。大丈夫。変わるように思えても、お前はお前だ。どんなになっても、それは変わらない」
三蔵の仕草に、三蔵の言葉に、悟空は安心したかのようにふっと力をぬいた。
そんな悟空の様子に三蔵はひどく優しげな笑みを浮かべ、悟空の首筋に顔を埋めた。
「悟空……」
囁きつつ首筋を辿っていく唇に、悟空の中に痺れるような甘い感覚が広がっていく。
なぜだろう。
こうして肌を合わせることが、安心できる唯一の方法だった。
だけど。
「どうした? 怖くねぇって言ってるだろ?」
三蔵の唇が首筋から目元にと移動する。
それで初めて悟空は気付く。
自分が涙を流していることに。
「嬉しい、って言ったら変かな」
涙を浮かべたまま、三蔵を見上げて悟空が言う。
「こうしていることが。三蔵とこうするのが嬉しいなんて」
優しい手が欲しかった。
ここにいてもいいんだと思える手が。
だから、抱きしめてもらうと安心した。
でも、三蔵とこうしているのは嬉しい。ただ、嬉しい――。
「変じゃねぇよ」
囁きとともに与えられるキス。
「俺もそうだからな」
そう告げられて、悟空はふわりと笑みを見せた。
太陽の下の花のような笑み。
それはとても素直な、美しい笑みだった。
□ ■ □
ふと意識が浮かび上がり、悟空はゆっくりと目を開けていった。
どのくらいの時間がたったのかわからない。今が朝なのか、夜なのかも。
やがてぼんやりとした視界に、最初に映ったのは――。
「さんぞ……」
ちゃんと呼びかけたつもりなのに、掠れたような声が出る。
起き上がろうとして体が思うように動かず、困ったように悟空は三蔵を見上げた。
「無理するな」
苦笑まじりに三蔵はそういい、起こしてくれた。腕を引かれるまま、もたれかかるように、三蔵の肩にと頭を預けた。
三蔵の手が伸びてきて、ゆっくりと優しく髪を梳くように頭を撫でられる。
言葉は何もない。
だが、穏やかな暖かさに包まれているような感じがする。
撫でてくれる手が心地よくて、悟空の顔には知らず知らすのうちに微かに笑みが浮んでいた。しばらくそのままでいたが、やがて三蔵の声が聞こえたきた。
「悟空、お前、ここよりももっと小さい部屋に移るって言ったらどう思う?」
その言葉に悟空は息を呑んだ。
突然、忘れていた言葉が脳裏に蘇ってきた。
――三蔵さんにとって今が一番大切な時期なんです。
――ただひとつだけ。三蔵さんと一緒に暮らすことだけ、諦めてもらえませんか?
「……いい……よ……」
掠れてしまったからだけではなく、悟空は声を絞り出すようにして言った。俯いて、三蔵から身を離す。
すっと体から熱が引いていく。
満たされていた暖かさが消えていく。
でも、三蔵が望むのならば。
一度だけでも、優しくしてくれたのだから。
それで。
それで充分だろう。
「悟空?」
訝しげな声がするが、悟空は視線をそらしたままベッドから降りようとする。
三蔵のそばにいることはできなかった。
このままそばにいれば。
「悟空、お前、まさか――」
腕を掴まれて引き止められる。そのまま強く抱きしめられた。
「やだ、離して――」
どうして抱きしめたりするのだろう。
それは、凄く残酷なことだ。
――泣いてしまう。
「離して」
ここで泣いたら縋ってしまう。ずっとそばにいて、と。
そんなのは駄目だ。
これ以上の迷惑はかけられない。
「違う。よく聞け。移るのは、一緒に、だ」
「一緒……?」
三蔵の言葉に、もがいていた悟空の動きが止まった。
「そうだ。一緒に、だ」
語気を強めてもう一度言い、それから三蔵は苦笑じみたものを浮かべた。
「ありえねぇだろうが。こんな足腰が立たなくなるほど抱いておいて、追い出すような真似をするなんて」
「でも……」
「ここは店のものであって俺の持ち物じゃねぇんだよ。店をやめるとしたら出て行かなくちゃならねぇからな」
「お店……やめる、の……?」
「あぁ。もう必要ねぇからな」
「お祖父さんの会社に入るから?」
三蔵の眉が軽く跳ね上がった。
「あいつが言ったのか?」
「うん。あの家――三蔵が育った家を手に入れるためって」
悟空は顔を伏せた。
「ごめん。なんかいろんなことがあって、混乱してて。でも、大丈夫。俺は一人でも大丈夫だよ」
ゆっくりと息を吐き出す。
ずっと一緒。
それはもともと自分に向けられた言葉ではないのだから。
それを望むことは間違っている。
それに。
「あの家、大切なんでしょ? それを手に入れられる機会なんでしょ? 俺に関わって、みすみす機会を逃すようなことになったらどうするの? 大切なもののことを一番に考えなきゃ」
「……そうだな」
三蔵の呟き声がして、悟空は笑みを浮かべた。泣くことはできない。なら、笑うしかないだろう。だけど、それは長くは続かない。
悟空は改めて三蔵から離れようとした。
「三蔵……」
それなのに、三蔵の腕の力が強くて抱擁から抜け出せない。
「あの……離して……」
「大切なものの手は離しちゃいけねぇんだよ」
「三蔵?」
「俺は一度、離してる。それで、永遠に失った。もうあの時のような後悔はごめんだ」
ぎゅっと、ますます腕に力が入る。
「何? 何を……?」
「お前が大切だと言ってるんだよ。だから、離す気はねぇよ」
その言葉に、凍りついたかのように悟空は動きをとめた。
大切……?
「でも、だって、あの家……。ヘンな噂がたったら、三蔵……」
何がなんだかわからなくなり、混乱したかのように悟空は呟く。
「もう噂じゃねぇだろう」
クスリと笑う声がした。
「それに、噂もなにも関係ねぇよ。会社には入らねぇんだから」
「入らない……? でも、そしたら、あの家は……」
「俺が欲しかったのは、家じゃねぇんだよ。あそこで過ごした時間だ。お師匠さまと斉天と過ごした幸せな時間。思い出、といってもいいかもしれないがな」
「でも、それが残っているのが家、なんでしょう? だって、そのままの状態だって」
「そうだな。だが、別にあの家がなくても、思い出すことはできる。悟空、お前がいればな」
「俺……?」
「そうだ。最初に、店の裏口で見たときからずっと、お前は何よりも幸せだった頃のことを思い起こさせてくれる」
「嘘。だって、辛い思いをするって」
言ってから、はっとしたように悟空は身を固くした。
そう。
この姿が引き起こすのは辛い記憶。なのに、どうして傍にいたいなどと。
「それを言ったのは、あいつか?」
ため息とともに三蔵が言う。
「それは憶測だ。第一、俺が違うと言っているのだから。お前がくれるものは、いつでも安らぎだけだ。そんな存在は他に知らない」
「でも……。でも、あの女の人は? だって、三蔵、あの女の人の隣で寝てた……」
その時の光景が蘇り、悟空の胸に痛みが走る。
「寝てたんじゃなくて、眠らされたんだよ。ったく、あの女といいジジィといい、手段を選ばねぇ」
三蔵の顔が苦虫を噛み潰したかのようなもの変わる。
「眠らされた……?」
「そうだ。睡眠薬だか、睡眠導入剤だか知らんがな。あの女の話したことは全て嘘というわけじゃないみたいだが、最初から、お前を俺から遠ざけようとしてたんだよ。だから、あんな芝居を打った」
「芝居? じゃあ、三蔵はあの人とは何にも……」
「ねぇよ。あんな思い込みの激しい女、遊びでも手は出さねぇよ」
すっと手が伸びてきて、頬に添えられ、まっすぐに視線を合わせられる。
「お前だけだ。今、俺が欲しいと思うのは、な」
「さん……」
「ずっと一緒にいたいと思うのも」
その言葉に悟空の目が見開かれる。
ずっと一緒。
それは。
「……でも俺はあの子じゃない」
その言葉を言ってもらえるのは、あの子だけ。
「ここにいる。ずっと一緒にいる」
思い出すかのように、三蔵が言う。
「この言葉……。お前がこだわっているこの言葉。お前、俺が間違えたと言っていたな。俺がお前と斉天を。だがお前は、その前後のことを覚えているか?」
「前後……?」
よくは覚えていない。気がつくと暗い中にいて。
「俺が見ていたのは確かに斉天だった。だが、斉天ではないと思った。お前はあの時、精神だけ斉天と同調していたんじゃないか? 不思議だが、そうとしか思えない」
思いがけないことを言われて、悟空は目を見開いた。
「斉天ではない。そう思ったが、引き寄せた。涙を止めてやりたいと思った」
言葉をなぞるように、三蔵は悟空を抱きしめる。
「しばらくして、斉天がいつもの斉天に戻って言った。自分のなかにいつも泣いている子がいると。いつかみつけてあげてね、と」
まるで何もかもから守るかのように、懐深くに抱きしめられた。
「あれがお前だとしたら、俺はようやくみつけたというわけだ」
「さん……ぞ……?」
「あの時のことをこだわるなら、ここにいると言ったのは、お前にだよ、悟空。泣いていたお前に、だ。だが、それがあろうとなかろうと変わらない」
三蔵の腕に力が入る。
「ここにいる。ずっとお前と一緒にいる。これはお前のための言葉だ」
「三蔵……」
それは、もとめていた言葉。
何よりも欲しかった言葉。
「三蔵」
何か言いたいのに、何も言えなくて。
想いだけが溢れ、悟空は三蔵の背中に手を回して、ぎゅっと抱きついた。
「悟空」
言葉がなくても想いは伝わったらしく、三蔵の唇が柔らかく額にと押し付けられた。
見上げる紫暗の瞳に浮かぶのは、優しい色。
胸がいっぱいになって、しばらくただ抱きついたままだったが、やがて悟空が顔をあげた。
「三蔵は本当にいいの? これでいいの? だって、俺を選んだら他は全部失うのに。あの家もなにもかも」
おずおずと尋ねる悟空に、三蔵は笑みを見せた。
「思い出より未来を大切にするのが普通だろう」
「未来……?」
「お前との未来だ」
言われて、悟空は驚きの表情を浮かべた。
「ずっと一緒だと言っただろう」
「三蔵」
未来。
ずっと一緒にいると言ってくれた未来。
それを選んでくれるというのだ、この人は。
「さん……ぞ……」
溢れ出す悟空の涙を三蔵は唇で受け止め、そして、見つめあう。
微笑みを交わし、どちらからともなく顔を近づけていく。
ここにいるから。
ずっと一緒にいるから。
ずっと一緒に――。