いつでも『誰か』がいたような気がする。
淋しいと泣くときに。
大丈夫だよと言ってくれたような気がする。
だけど、ある日突然その存在は消えて――。
とても怖くて、温もりをもとめた。
例えそれが一時的なものと知っていても。
偽りのものとわかっていても。
とても怖かったから。
今の感じはその時と似ている。
また、失うのだろうか。
大切な存在を。
でも今度は、失ったら、もうその代わりは探せない。
他に温もりをもとめることはできない。
知ってしまったから。
本当にもとめていたものを。
本物の温もりを。
だから、それ以外はもう意味を成さない。
けれど。
温もりを与えてもらうのに、抱きしめてもらう以上のことは許されない。
失うとわかっていても、それ以上のことはできない。
このまま失うことになったら、凍えてしまうとしても。
生きていけないとしても。
綺麗だから。
本当に綺麗だから――。
穢すことはできない。
Warmth U
朝。
一人きりで、悟空はベッドの上で身を起こした。
それは、三蔵の元に引き取られてから初めてのことだった。
三蔵のもとに引き取られて、この家に連れてこられた最初の日。
仕事に行った三蔵が、明け方近くに帰ってくるまでずっと眠れずにベッドに横になっていた。
暗い部屋。
ともすれば、自分がどこにいるのかわからなくなる。
もうあの家ではないのだとわかっているはずなのに。
闇の中から不意に手が伸びてくるかもしれないと思ってしまう。
それに、何よりも恐ろしいのは。
眠って起きたら、これが夢だったとわかること。
だからベッドで横になりながらも、眠ることができずいた。
明け方近くになって、物音がした。
どんどんそれが近づいてきて。微かな音をたてて、部屋の扉が開いたとき。
悟空は、ほとんど悲鳴をあげるところだった。
父親が現れたのだと思って。
いろいろなことが一度に起こり、疲れているはずなのに眠れなくて、頭の中に様々な思いが渦巻いて。
ありえないと理性ではわかっていたはずなのに、咄嗟にそう思った。
だが、怯えた目に映ったのは、三蔵の姿。
「起こしたか? 悪かったな」
囁くように言って三蔵が近づいてきた。
そばまでくると、怯えたような表情が目に入ったのだろう。軽く訝しげな表情を浮かべた。
「……眠っていなかったのか?」
悟空は、はっとしたような表情を浮かべ、そして三蔵から視線を外した。
「あ、ううん。えっと、早くに目が覚めて。なんかいろいろあったから、興奮しちゃったみたいで」
心配をかけるわけにはいかないと思った。
ただでさえ、たくさん迷惑をかけているというのに。
「大丈夫。もう少し、寝るから。三蔵も気にせずに寝て? お仕事、お疲れさま」
と、キシッとベッドの揺れる音がした。
視線を戻すと、三蔵がベッドの縁に腰かけていた。
「三蔵……?」
「もう少しつめろ」
「え?」
言われたことの意味がわからず、悟空はきょとんとした表情を浮かべた。
「ほら、早くしろ。俺は眠い」
上着だけ脱ぎ捨て、上掛けをめくり上げて三蔵が布団の中に入ってくる。
悟空は慌てて、端にと移動した。
「行き過ぎだ」
さらに端に寄ろうとすると、腕を掴まれて引き寄せられた。
三蔵の腕の中だ。
言い知れぬ安心感で満たされる。
悟空は安堵のため息を漏らした。そんなことをしたら心配をかけるだけと、自分を戒める間もなく。
すると、三蔵の手に力が入った。
「眠るときは一緒にいてやれないが、起きたらここにいる。だから安心して眠れ」
耳元で囁かれた言葉に、悟空の思考は止まった。
何か。
何か、言葉を返さなくては。
でないと、変に思われる。
だが、何も言葉は浮かばず、声を出せば泣いてしまうような気がして、悟空は無言のまま三蔵の方へと身を寄せた。
そして、それからずっと。
言葉の通り、目が覚めると三蔵が横にいた。
だが、今日は――。
悟空はふっとため息をもらした。
昨日、あんなことになったのに、それでもまだ同じであることを望むなんて、虫の良い話だろう。
のろのろとベッドから降りて、着替え始める。
三蔵の分だけ食事の用意をし、学校に行くために悟空は家を後にした。
■ □ ■
帰り道。
いつもと違って、走ることはしなかった。家に帰る足取りは重い。
あれは気の迷いだと思う。
つけられたアトに反応しただけ。
本気だとは思えない。そんなことはありえない。
だけど、なかったことにしようと言ってそれで終わるだろうか。それで元に戻ることはできるだろうか。
本気でなかったとしても、拒まれれば嫌な気持ちにもなるだろう。
それにこの先、同じことが起こらないとは限らない。
快楽を得るためにするなら、誰でもいい。手近にいる人間ですますのは、一番簡単な方法。心がなくてもできる。そんなの、嫌というほど知ってる。
だって、そうしてきたから。
だけど。
だけど、三蔵とだけはできない。
絶対にできない。
玄関の扉の前で深呼吸をする。
いつもの通り。いつものように。
「ただいま」
そう声をあげて、リビングに向かう。
「三蔵……?」
だが、いつもいるはずの姿はない。
ひどく怒っているのだろうか。もう顔も見たくないほどに。
瞬時に、悟空の心は冷える。
「三蔵」
呼びながら、部屋を巡る。キッチン、三蔵の部屋。
だが、三蔵の姿はどこにもない。
「三蔵……」
リビングに戻り、悟空はどこか呆然と呟いた。
■ □ ■
カーテンを引くことも忘れていた窓から光が差し込んできて、悟空はのろのろとソファから身を起こした。
朝。翌日の朝。
結局、三蔵は一晩、帰ってこなかった。
「どう……し……て……」
我知らず呟く。
もう会いたくないということだろうか。
もう二度と――?
凍りつくような絶望に、目蓋を閉じようとしたそのとき。
電話が鳴った。
弾かれたように、悟空は電話に走り寄った。
ナンバーディスプレイに表示されている番号。それは三蔵の携帯電話の番号だった。
「もしもし」
飛びつくように電話にして出る。
「玄奘さんのお宅ですか?」
だが、聞こえてきたのは、予想とは違う女性の声。
「はい」
混乱しつつ、悟空は返事をする。
「突然、すみません。あの、悟空さんですか?」
そう続けられて、更に悟空は混乱する。
「はい。そうですが……」
「私、三蔵さんの従妹にあたる者です。三蔵さんのことについてご相談したいことがあるのですが」
「相談?」
「えぇ。ごめんなさい。突然、こんなことを言い出して。すぐには信じてもらえないかもと思って、三蔵さんの携帯を借りて電話をしたのですが」
「あの、三蔵……さんはどちらに?」
「ここに。三蔵さんの実家に。差し支えなければ車を迎えにやりますので、いらしていただけませんか?」
これは一体どういうことだろう。
実家とは一体……。
「悟空さん?」
沈黙してしまった悟空に、電話の向こうから気遣うような声が聞こえてくる。
「あ、すみません。行きます。伺わせていただきます」
「ありがとうございます。30分くらいで迎えの車は着くと思いますので。お待ちしています」
そこで電話は切れた。
だが、悟空はしばらくの間、片手に電話を持ったまま立ちつくしていた。
■ □ ■
案内されたのは、都心に程近い一等地にある大きな家。
広い敷地に建つ、洋風の白亜の建物は、外観も内装もとても美しい。
だが、あまりに綺麗すぎて、落ち着かない。
先に立って案内してくれる年配の女性の後についていきながら、悟空は飾られているものにうっかり触れて、壊してしまったらどうしようと、内心ビクビクしていた。
人一人通るにはあまりに広い廊下ではあったけれど。
電話をしてきた女性の言葉によると、ここは三蔵の実家だということだが、三蔵は、こんな立派なお屋敷といってもいいところで育ったのだろうか。
自分との違いを、明確に突きつけられているようだ。
やがて、年配の女性は一室の前で立ち止まり、扉をノックをした。
「どうぞ」
中から柔らかい女性の声がした。電話の声だ。
扉が開くと、金色の髪が見えた。
こちらに背を向けた長椅子の陰から、金色の頭だけが見えている。
三蔵――。
安堵にも似た感情が湧き上がり、悟空は思わず駆け寄ろうとしたが、その隣で人影が動き、足を止めた。
人影は女性だった。たぶん、この女性が電話の主だろう。こちらを振り返って、人差し指を口に当てる。
静かに、ということらしい。
それから手招きをされて、悟空は椅子を回って近づいていった。
三蔵は眠っていた。
とても無防備に。
「疲れているらしくて……」
起こさないように、静かに囁く女性の声はとても優しい。そして、三蔵を見下ろすその目も。
鋭い痛みが悟空の胸を走り抜けた。
女性が顔をあげて、悟空の方を見た。
「すみません。場所を変えてお話しましょう」
胸の痛みの正体を考える間もなく、悟空は柔らかな笑みを浮かべる女性に促されるように部屋を出た。
■ □ ■
「わざわざすみません」
場所を変えた一室で、香り高い紅茶を前にして、女性が深々と頭を下げた。
「いいえ。あの、それよりも、お話とは……」
「えぇ」
女性はそう言ったきり、悟空の顔をじっと見つめて話を切り出そうとはしない。
「あの……」
「あ、あぁ。ごめんなさい。あまりにも良く似ていらっしゃるものだから。さすがに双子だけはありますね」
「双子……?」
訝しげな悟空の表情に、女性が驚いた顔を見せる。
「あの、まさか、ご存知ないとかではないですよね? お兄さま――斉天さんのことを」
「斉天……」
知らぬ名、のはずだった。
だが、何故だろう。その名を聞いた途端、胸が暖かくなった。
知らない。けれど、知っている――。
「本当に知らないのですか? 三蔵さんから何か聞いていません? あなたを引き取ろうとしたのは斉天さんのことがあるからなのに」
「三蔵……さんが俺を引き取ってくれたのは遠縁だからって。それだけしか――」
何か、他にも理由があるのだろうか。
たまたま行き当たって可哀想だと思ったという他に。
「本当に何もご存知ないんですね」
女性は意外そうに言い、そして立ち上がった。
「少しお待ちください。確かどこかに写真があったはずですから」
そう言って女性は席を外し、しばらくしてから写真立てを手に戻ってきた。
「ご覧ください」
手渡された写真を見て、悟空の目が驚きに見開かれた。
写っていたのは、優しそうな銀髪の男性と子供が二人。子供の一人、金髪の方には三蔵の面影があり、もう一人は――。
突然、眩暈がしそうなほどの理解が押し寄せてきた。
知っている。
この子、知っている。
小さい頃からずっと、淋しいと泣くたびに、大丈夫だと言ってくれる目に見えぬ存在がいた。
それはよく考えれば不思議なことだったが、だが、確かに身の内にその存在を感じていた。
この子がそうだ。
ずっと大丈夫だと言ってくれた子。
「この子。この子は――」
悟空は顔をあげた。
「あなたにそっくりでしょう? 斉天さん。あなたとは双子の兄弟だと聞いています」
気の強そうな瞳。
それは自分にはないものだったが、写真に写っている姿は自分でも見間違えそうなくらいそっくりだった。
双子。
今の今まで、その存在を知らなかった。
でも、ずっと知っていた。
ずっと、そばにいてくれた。
ずっと、心が繋がっていた。
「この子は、今、どこに?」
いくらか勢い込んでそう尋ねたが、女性の顔に浮かんだ表情を見て、悟空は女性が答える前にその答えを知った。
「……亡くなりました。光明さん――その写真に一緒に写っている三蔵さんのお義父さんと、三蔵さんの大学の合格祝いに玄奘の家に来る途中、事故にあって、二人とも」
悟空は凍りついたかのように動きを止めた。
ある日、突然、消えたその存在。
それは――。
「三蔵さんは高校に入る歳に、私どもの家に――玄奘家に養子に迎えられました。祖父がどうしても、と望んでのことでした。もともと祖父と光明さんは懇意にしていましたので、その後も三蔵さんは光明さんと斉天さんと変わらず家族のような付き合いをされていました。だから、合格祝いも三人で出かける予定でした」
女性は痛ましげな表情をし、それから視線を落とした。
「そのことで、三蔵さんは今でもご自分を責めています。自分が玄奘家に入らなければ、二人は事故にあうこともなかっただろうと。そんなことはありませんのに。決して三蔵さんのせいではないのに」
女性の握りしめた手が微かに震える。
「三蔵さんはご自分を責めて、責めて、責めて――そうして、玄奘家を出ようとしました。祖父は言いました。出るのは構わないが、この家はどうするのか、と。一介の学生であった三蔵さんにはこの家を買い取ることなどできませんでした。そして結局、祖父がこの家をそのまま丸ごと買い取ったのです。三蔵さんに与えるために」
「でも、三蔵には受け取らなかった」
静かに悟空は口を開いた。
「えぇ。なぜ、それを? 三蔵さんが話しましたか?」
「いいえ。でも、ホストのお仕事をしているのはそういうことなのかと思って。自分の手でこの家を取り戻すために」
綺麗だけど、そぐわないと思っていた。ホストという仕事は。
でも、そういう理由ならばわかる。
他人の手を――しかも、その遠因となったと考えている人間の手を借りずに、自分で取り戻そうとしているのだろう。
どんなことをしても。
そんな意思の強さが三蔵にはあるから。
「そうです。でも、ホストのお仕事なんて……。いつか、体を壊してしまいますわ。だから、私、祖父の会社のプロジェクトをひとつ、三蔵さんに任せてもらえないかと祖父にお願いしたんです。三蔵さんがこだわっていらっしゃるのは、自分の手でこの家を取り戻すことだと思いますので。何もないところから、祖父の手を借りずにプロジェクトをひとつ成功させることは、かなりの困難を伴うものだと思います。この家は、その成功報酬。これならば、三蔵さんも祖父も納得できるのではと思って。そして思った通り、二人とも承知してくれました。お願いがあるというのは――あなたに、お願いがあるというのは、このことについてなのです」
女性が思いつめたような目でまっすぐにみつめてきた。
「三蔵さんのもとを離れていただけませんか?」
その言葉に悟空は微かに息を呑んだ。
「ごめんなさい。こんなこと、とても酷だとは思います。あなたがとても辛い思いをしてきたことも知っています。ですが、三蔵さんにとって今が一番大切な時期なんです。会社には、祖父の手助けがあっては無意味ですから、本当に何の後ろ盾もなく入ることになります。祖父の威光は、逆に大きなプレッシャーとなって三蔵さんのしかかってくるでしょう。だから、ヘンな噂は命取りなんです」
「噂……って、三蔵と俺の……?」
「もちろん、ただの噂だということは知っています。ホスト仲間が三蔵さんを妬んでタチの悪い噂を流しているんだと。でも……」
徐々に悟空の体は冷たくなっていく。
光の射さない場所に放りだされたように。
「でも、あぁいう噂は、一緒に暮らしているからこそ立つのだと思いますし、一緒に暮らしていればその噂を完全に消すことはできません。もちろん、あなたの義理のお父さまのところに帰れと言っているわけではありません。よろしければ、しっかりとしたお家との養子縁組をご用意させていただきます。もしも、三蔵さんが保護者のままの方がいいとおっしゃるなら、そのままで、いつでもお好きなときに会いにいらしていただいても結構です。でも、ただひとつだけ。三蔵さんと一緒に暮らすことだけ、諦めてもらえませんか?」
ただひとつだけ。
望むものは、優しい手。
それだけ。
「それに、三蔵さんもあなたと暮らすのは辛いらしくて――」
言われて、自然と俯いていた悟空の顔があがった。
「あなたは斉天さんによく似ているから。似ているというよりも、そのものの姿をしている。なのに、斉天さんとは違う。だから、その違いに本当に光明さんも斉天さんもいないのだと思い知らされる。斉天さんはよく『ずっと一緒だ』と言っていましたら、余計に辛いんでしょうね……」
「ずっと……一緒……?」
「えぇ」
ずっといる。ここにいる。
あの言葉は。
あの光は――。
悟空はのろのろと立ち上がった。
「三蔵……さんに、わかりました、と伝えてください。もう迷惑はかけませんから」
戦慄く唇をどうにか抑えてそれだけ言うと、悟空は部屋を出て行こうとした。
と、突然、部屋の扉が開いた。
「おい。一体、何を――」
そう言いつつ、入ってきたのは三蔵。
部屋を出て行こうとした悟空と、入ってこようとした三蔵と。どちらがより驚いたのかわからない。
一瞬、二人とも動きを止めた。
が、悟空の方が早く立ち直った。
ありがとうとか、世話になったとか。
そんなことを言うために口を開こうとする。
だが、言葉に出せば確実に涙が溢れる。
悟空は一礼すると、三蔵の傍をすり抜けた。
「悟空?!」
三蔵の声が追ってきたが、悟空は構わず走り出した。