süßer als Seufzer




 ――夜。
 灯りの消えた部屋。
 月の光だけが差し込む薄暗闇のなか、まるで呼ばれるように迷わずにここまで辿りついた。
 ここ。
 巫子の眠る寝室。

 そっと寝台に近づき、その寝顔を確かめる。
 穏やかな寝顔。
 すぐ傍に己を害しようとする者がいるというのに。
 わからないのだろうか。
 人には見えぬものを見ることができるはずなのに。

「ん……」

 そんな想いが伝わったのか。
 寝台で眠る少年が、微かなうめき声をあげてふっと目を開いた。

 月明かりに輝く金色の瞳。

 不思議そうにこちらを見上げ、それから身を起こす。
 しばらく無言で見つめあった。
 やがて少年の瞳が動き、俺が手にしているものにと視線が移った。
 鈍く光る刃がその目に映っているだろうに、少年の表情は変わらない。
 あまり興味がなさそうに視線が外されると、もう一度こちらを見上げた。

「触れてもいい?」

 小さく少年が囁き、手を伸ばす。拒絶されるのを恐れるかのように、ゆっくりと。
 触れられるのは、本当は好きではなかったが、じっと動かずにいた。
 これが最後の願いなのだから。
 やがて、少年の手が髪に触れた。サラッと指の間から零すように触れてくる。

「綺麗……。キラキラしてる」

 ほぅとため息をついて、少年が言う。
 月の光にかざしているのだとわかった。
 そして、もう一度満足そうにため息をつくと、手をおろした。
 じっとこちらをみつめる。

「あの……」

 どのくらい、そうやって見つめあっていただろうか。
 少年が落ち着かなげに声をかけてきた。

「見ているとやりにくい?」

 ちらりと刃の方に目をやる。

「最後まであなたを見ていたかったんだけど……」

 少年は、まるで目に焼きつけようとするかのように、じっとこちらを見上げると、視線を落とした。
 ゆっくりと、金色の光がまぶたに覆われていく。

 駄目だ、と思った。
 その金色の光が消えるのは駄目だと思った。
 もう一度、見たいと。

 手を伸ばして、頬に触れた。そのまま手を滑らせて顎にとかける。
 そして。

 柔らかな感触。
 柔らかく、甘美な――。

 唇を離すと、驚いたように見開かれた目と目が合った。
 もう一度見られた金色の光に、知らず知らずのうちに笑みが漏れる。
 また顔を近づけて、今度は貪るように口づけた。
 少年は微かにその身を震わせたが、抵抗するような素振りは見せない。
 口蓋内に割って入ったときも、縋りつくように腕に置かれた手に力が入ったが、それだけだ。
 従順に受け入れている。

 やがて透明な雫が糸をひき、プツンと切れるかのように落ちていった。
 それと同時に少年の体からも力が抜け落ち、倒れこんでくる。
 両手でしっかりと受け止めた。
 手にしていた短剣はいつの間にか床にと滑り落ちていた。

「な……んで……?」

 腕の中で囁くような声がした。

「なんでこんな……」
「お前こそ、なんでだ?」

 見上げる金晴眼に問いかける。

「何が……?」
「俺が何をしにきたのかわかっているのだろう? なぜ抵抗しない? なぜ自ら進んで命を差し出そうとする?」
「あぁ、そのこと。だって、あなたの役に立てるってことでしょう?」

 ふわりと嬉しそうな笑みが浮かんだ。
 役に立てるのを本気で嬉しいと思っているような。

「俺が死ねば、『天』という後盾を失って天帝の威信は地に堕ちる。そうすれば、あなたは自分の国を取り戻しやすくなる。つまり俺が死ねば、あなたの役に立つってことでしょう」

 世間から隔離され何も知らぬ少年、と思っていたのに、的を射た分析に少し意表をつかれた。

「なぜ俺の役に立ちたいなどと」
「綺麗だから。本当に綺麗だから」

 先ほどとは違い、答えになっていない答えに、思わず眉間に皺が寄る。

「覚えていないだろうけど、俺、ずっと前にあなたと会ってるんだよ。俺がここに初めて連れて来られたときに。何もかもが作り物めいたなかで、あなただけがとても綺麗だった。キラキラ輝く髪が太陽みたいで、触れてみたいと思った」

 こちらに向かって手を伸ばしてきた子供。
 あのときのことを覚えていたのかと逆に驚く。
 あんな束の間の出会いを。

「その願いが叶った。だからもういい。どうせあと1年くらいしか持たないんだから、あなたの役に立てるならその方がいい」
「1年?」
「うん。俺は、ここではあまり長くは生きられない。空気が悪いから」

 その言葉に目の前が暗くなったような気がした。

「来年の大祭は、俺が大地に還る儀式だよ。ま、儀式は形だけだけど。その後、本当に大地に還るか、さもなければ……」
「さもなければ?」

 さもなければ、ということは、生き延びる術があるということだ。

「天帝にしゅをかけてもらって、天帝の人形として奥の院で生きるか」
「な……」

 天帝の人形。
 あの手が触れるというのか、この身体に。

「渡さない」

 ほとんど反射的に呟いて、腕の中の身体をさらに引き寄せた。
 その言葉にも、その行為にも、自分で驚く。
 だが、腕に力をこめた。

 誰にも触れさせない。
 渡さない。
 これは俺のモノなのだから。

「俺のために命を差し出すというのならば、その命、俺が貰おう。その身体も心も全て俺に寄こせ」

 驚いたように少年が顔をあげた。
 少年はしばらくそのままこちらを見上げていたが、やがてポツリと尋ねるように呟いた。

「……全部?」
「何もかも全て」

 そう答えると、金色の目が更に大きく見開かれた。

「あなたは、巫子を手にいれるということがどういうことだかわかっているの……?」

 静かに少年が問う。
 知るか、と思う。
 どのような意味があれ、これは俺のモノなのだから。
 俺が俺のモノを手に入れて何が悪いというのだろう。

 やがて、ふっと少年は笑った。
 今までの笑みとは違う、どこか妖艶な笑み。

「あなたが俺に全てをくれるなら、俺も全部あげるよ。何もかも全て。それを受けとめられるだけの覚悟があるの?」

 言葉を聞きながら、ゆっくりと寝台に押し倒していった。
 それでもその金の瞳は揺らぐことがない。

「お前こそ、俺に抱かれることの意味を本当にわかっているのか? それは全てを――神をも裏切るということだぞ」

 腕が伸ばされ、少年が柔らかく抱きついてきた。

「神様なんていないよ。だって、俺は知らない。会ったことなんてない……」

 吐息まじりに囁く唇を塞ぐ。
 深く、何度も口づける。

 寝台に横たえると、溜息とともに少年の体から力が抜け落ちた。

「お前は俺のモノだ」

 囁いて、覆いかぶさっていく。

 漏れる甘い吐息。
 そしてどこまでも甘く溶けていく身体――。


 甘く。

 甘く――。



 溜息よりも甘く―――――。