穏やかな光が降りそそぐ野原。元気に跳ね回っていた小猿……もとい、悟空は、ふと足を止めた。視線の先にあるのは、小さな黄色い花。
「うわぁ」
 思わず感嘆の声をあげて、たったか走り寄る。両手を地面について、しゃがみこんで眺めた。
 ようやく暖かくなってきた日差しを受けて、小さなその花はキラキラと輝いて見えた。
 金色の太陽のように。
 太陽と呼ぶには、それはあまりにも小さいものだったけど。
「きれー」
 ほっと息をつきながら、悟空はうっとりと囁いた。

たいようのはな


「でね、でね。すっげーキレイだったんだ」
 夕食の席で、身振り手振りを加えながら、悟空は今日一日どんな風に過ごしたか三蔵に報告していた。最近とみに忙しくなった三蔵と過ごせる時間は、食事の時くらいになっていた。
「太陽みたいだった。あ、でも全然ちっさいんだけどな」
 三蔵の前にはもうお茶が置かれていたが、悟空は相変わらず目の前の料理をぱくぱくと平らげていた。もともと量も多いのだが、『口に食べ物が入っているうちはしゃべるな』と言われているせいで、人の倍くらい食事に時間がかかる。だが、三蔵はせかすでもなく、と言って身を入れて話を聞いているわけでもなく、新聞に目を落としながら茶をすすっていた。
「なぁ、三蔵。今度のお休みはいつ?」
 ようやくデザートに手をのばして、悟空は三蔵に問いかけた。
「当分先だな」
「むぅ」
 むぐむぐと口を動かしながら、悟空はむくれた。もうずっと、三蔵と一日中一緒にいることがなかった。一日一緒にいても遊んでくれるわけではないのだが、それでも三蔵が一緒にいてくれるならば、外に遊びに行くよりも三蔵のそばにいる。悟空にとっては、三蔵と過ごす時間はそのくらいかけがえのないものだった。
 一度、大人しくしているからと言って三蔵が仕事をしている執務室に入りこんだことがあったが、気が散ると言われて追い出された。だから、三蔵と一日一緒にいれるのは、休みの日くらいだった。
「今度、休みの日に一緒に見に行こう」
 デザートを食べ終わった悟空が、にこっと笑って言った。新聞から視線をあげた三蔵の顔には『メンドくせぇ』と書かれているようだった。
「な、三蔵」
 真正面から三蔵を見て、悟空が再度言った。
 目に絶対行くって言わせるという強い決意をこめる。言い争っても不毛と思ったのか、三蔵は幾分不機嫌に答えた。
「……わかった」
「ありがと、三蔵」
 悟空は満面の笑みを浮かべた。

 約束はしたものの、三蔵の仕事は日々増えていくようで、なかなか休みがとれないでいた。それでも、朝、昼、晩の食事を悟空ととるという習慣だけは律儀に守っていた。仕事を早く片付けるためには、さっさと食事を終わらせて仕事にとりかかれば良いのだが、悟空の話を遮るようなことはしなかった。
 傍から見れば悟空を甘やかしているように見えるかもしれない。だが、どちらかと言うと、そうすることが三蔵の望みだった。
 押し付けられた三蔵法師の義務に対する苛立ちも、未だ師の形見の経文を見つけられない焦りも、悟空のくるくる変わる表情を見ているうちに知らず薄まっていく。
 無邪気な笑顔。それにどれだけ救われているか。もしかしたら、三蔵自身も気付いていないかもしれなかった。
 ある日、三蔵がいつものように執務室で書類に目を通していると、廊下から何事か言い争う声が聞こえてきた。そのうちの一人はどうやら悟空のようだった。
 前に一度、気が散ると言って執務室を追い出して以来、本当に忙しいときには悟空がここに来ることはなかった。猿頭でも一応気を遣っているらしい。それなのに一体何事だろう。
 三蔵は、チッと舌打をすると廊下に通じる扉を開けた。
「別に三蔵の邪魔をする気はないよ。この花を机に飾ったらすぐ出て行くって言ってるだろ」
「だから、そんな雑草ごときで三蔵様のお手を煩わせないでくださいと言っているんです」
 扉の向こうで、悟空と二、三人の僧が言い争っていた。
「あ、さんぞー」
 三蔵が顔を見せると、悟空が真っ先に反応した。僧達は、ピキッと氷ついたように動きを止めた。
「何事だ、騒々しい」
 不機嫌な声に動じることもなく、悟空は三蔵の元に走り寄ってきた。
「なぁ、雑草ってなんだ?」
 そして、小首をかしげるようにして問いかける。
「その辺に生えている草のことだが」
 訝しげに思いつつも三蔵が答えてやると、悟空の表情が一変した。何だか傷ついたような表情。今にも泣き出しそうな表情だ。
「おい、どうしたって……」
 悟空の手に握られている花が目に入って、三蔵の言葉は途中で途切れた。
「蒲公英か」
「庭の隅に咲いているの、見つけたんだ。三蔵に見せてあげようと思って、俺……」
 悟空は俯く。
 悟空の言っていた太陽みたいな花というのは、蒲公英のことだったのか。
 悟空にとって『太陽』とは特別な意味がある。それなのに、どこにでもあるありふれたものだと言われたら……。
 三蔵は無意識のうちに、先に蒲公英に気付けなかった自分に腹を立てた。
「おい、行くぞ」
 三蔵は外に向かって廊下を歩き出した。
「え? 三蔵?」
「今日はもう休みだ。約束通りお前がそれを最初に見つけたところに行ってやると言ってるんだ」
 振り向かなくても悟空の顔が喜色に輝くのが手にとるようにわかった。
「三蔵さま!」
「まだご公務が!」
 騒ぎ立てる僧達に、冷たい紫暗の瞳を向ける。
「煩い」
 一言で切って捨て、三蔵は悟空を伴って寺院を後にした。