変奏曲〜variation (15)


 ゆっくりと身を起こそうとして、途中でその意図に気づいた三蔵に悟空は引っ張り上げられた。
 ふわりとその腕のなかにおさまる。

 まだ少し乱れる呼吸。
 早鐘を打っているような心臓。
 ほぉっと大きく息をついて。

「さんぞ……」

 悟空は微笑んで呟く。

 ずっと離さないで。
 その言葉の通り。
 三蔵は、ライブが終わったあとから、今まで、片時も悟空のそばを離れなかった。

 打ち上げをパスし、どうしてもという悟空に言うのに負けて病院に寄ったのち、三蔵は悟空を自分が一人暮らしをしているマンションへと連れてきていた。大学からだと、実家よりはそちらの方が近かったのだ。

「もう落ち着いたか?」

 ゆっくりと髪を撫でながら、三蔵がきく。

「うん。大丈夫」

 まるで猫の仔が甘えるように三蔵に擦り寄って、それから悟空は三蔵を見上げた。

「怪我、たいしたことなくて良かった……」

 そっと、腕に巻かれた包帯を手で撫でる。
 出血が多いように思われたが、怪我自体はたいしたことはなく、縫わなくても大丈夫と言われた。

「大げさなんだよ」
「でも、本当に心臓が止まるかと思った。ナイフの前に飛び出すなんて」
「こっちのほうが心臓に悪かったぞ。お前、なにもしないで突っ立ったまんまだったから」

 三蔵が、壊れ物を扱うように悟空の手をとり、唇を近づいた。

「まったく、手に傷がついてみろ。ピアノ、弾けなくなるぞ」

 悟空の目が大きく見開かれる。

「……そんなこと、考えてなかった。だって」

 横を見る。
 ベッドサイドには、壊れた携帯。
 それを見ていた悟空の目が潤み出す。

「無くなっちゃった」

 ポツリと呟く。

「三蔵との思い出。メールとか写真とか」
「……そんなもんに気をとられてたのか」

 ふっとため息にも似た吐息をひとつ漏らし、三蔵が呟く。

「そんなものって……っ」

 反射的にむっとしたように言って、自分の方を振り仰ぐ悟空の頬に、三蔵は手を添えた。

「別に、俺がここにいるんだからいいだろう? それとも」

 それからしっかりと目を合わせた。

「いつかいなくなるとでも思っているのか」

 悟空の目がこれ以上ないくらい大きく見開かれる。
 それから、顔を俯けようとするが、三蔵の手で掴まれていてそれは適わず、視線だけをさげ、ついで目を伏せた。

「……さんぞっ」

 だが、唇に柔らかい感触を覚え、ぱっと目を開ける。

「なんだ? 目を閉じたのは、キスしてほしいってことじゃないのか?」

 微かに意地悪そうな笑みを浮かべる顔。
 悟空の頬が赤く染まる。
 それを腕のなかに閉じ込めるように、三蔵は強く抱きしめた。

「手放してなどやらない。お前が嫌だと言ってもな」

 ようやく手に入れたのだから。
 三蔵は心の中で付け加える。
 その感情がどこからくるのかはわからない。だが、いままでこんなにも執着するものはなかった。
 さらに腕に力を入れる。

「さんぞ……?」

 少し離して、不思議そうに見上げる顔を見つめ、それからまたキスを落す。
 失いたくないと思っているのは、自分の方だ。
 自嘲気味にそんな風に思いながら、今度は噛み付くような激しいキスをする。

「ふ……ぁ……んっ」

 水音が響き渡るような、激しいキス。
 激しさについていけない悟空が、苦しそうな、それでいて甘い声をあげる。

 やがて唇を離すと、体から力が抜けた悟空が倒れ込んできた。
 背中に手を回し、ぎゅっと力を込めて抱きしめる。
 それは、抱きしめるというよりも、すがりつくようでもあり。

「……お前、ピアノ、どのくらいやっていたんだ?」

 ふと口をついて、言葉が出てくる。
 いつかどこかに行ってしまうのかもしれない。
 漠然とした不安がいつでも心の奥底にあった。
 そんな風に思うのは、悟空が自分のことをなにひとつ話そうとしないから。
 別に何もかもを知りたいと思っているわけではなく、話したくないことなら話さなくてもいいと思う。
 いいとは思うのだが。

「譜面を見ずにあれだけのレベルの『月光』が弾けるんだ。ただ習っていた、という程度ではないだろう?」

 趣味でピアノを習っているという音ではなかった。
 悟空がクラシックを弾くのを初めて聞いたが、《ou topos》の曲よりも、よほど弾きなれている感じがした。
 いや。
 弾きなれているだけではない。
 悟空は、人に聞かせるレベルで曲を弾きこなしていた。
 ただ正確に弾くだけではなく、自分の音で。
 それは、ホールでコンサートが開ける、といってもいいほどの腕前だった。

「……父さんが……ピアニストだった」

 ポツリと、呟くように悟空は言った。
 微かに肩が震える。

「だから物心ついたときから、ピアノはもうそばにあった。最初はちゃんと弾かせてはもらえなかったけど。指を痛めるからって。でも、音が好きでよく遊んでた。それで……それで……」

 言葉が途切れて、震えが大きくなる。

「ごめん……ごめんなさい……もう少し……」

 顔をあげさせると、頬に涙が伝い落ちていた。

「もう少しだけ……」
「もういい」

 泣かせたくなくて連れてきたはずなのに。
 三蔵は腕の中に悟空を抱きしめた。

「もういい。言えるときでいいし、言わなくても、別に構わない」
「……もう少し……だけだから……」

 ぎゅっと悟空が抱きついてくる。

「大好き」

 そう言いながらもとめどなく流れ落ちる涙は止まることなく。
 三蔵は腕に力を込めた。






 もう少し。


 その言葉が、一緒にいられる時間をさしていたのだと。
 わかったのは、それからしばらくして、悟空が姿を消してからだった。


 それと時を同じくして、ある週刊誌に載った記事が世間を賑わせることになる。

 ――《ou topos》に曲を提供した作曲者の父親は、殺人犯だった――





 そして、悟空の行方は杳として知れなくなる。



 もう少しだけ――。

 その言葉だけを残して。



【完】