優しい手 (1)


夏を思わせる日差しのなか、饅頭の入った袋と水筒を抱え、軽快な足取りで悟空は寺院の庭を走り抜けていた。
いつもたいていにこにこしているが、今日は特別に、鼻歌を歌い出すのではないかというほど機嫌が良い。
だが。

「おい、待て」

ぞんざいにかけられた声で、その表情は少し曇る。
悟空の足にはだれも敵わない。
このまま無視して走り続けてしまおうかとちらりと考えるが、そうすると後がうるさい。
キキキ、とブレーキをかけるように止まり、声のした方を見るとそこに三人組みの若い僧がいた。

「三蔵さまを知らないか?」
「知らない」

悟空は少し離れたところに立ち止まったままで答える。

「本当か?」
「朝に見たっきり、今日は見てない」

きっぱりと言い切るが、胡乱な目つきが返ってくる。
むっとして見返してやると三人は互いに目を見交わし、頭を突き合わせるように小さく纏まった。

「用はそれだけ? なら、もう行くよ」

低い声でこそこそとなにやら相談しているらしい三人組に声をかけ、悟空はさっさとその場を離れようとするが。

「おい、まだ話の途中だ。年上に向かってそういう態度は無礼だぞ」

なかのひとり、リーダー格かと思われる輩が一歩前に出て言う。
言ってることは正論だが、たぶん悟空がどんな態度をとっても気に入らないだろう。
そんなんでは、なにを話しても無益だ。
それは本人だってわかっているだろうに、いちいち突っかかってくる態度の方が大人げないと思う。
だが、それを口には出さば余計に面倒なことになる。
ので、悟空はおとなしく口をつぐむ。

「三蔵さまのお気に入りだからっていい気になるなよ」

だが、なにも言わなくても気に障るのか、そんなことを言い出してくる。
悟空はひとつ溜息をついて、その場を立ち去ろうとするが。

「お気に入り、といってもいつまで続くかわからないぞ」

後ろのひとりがわざと聞かせるかように、声をあげる。

「確かに。いままでに何人変わったかわからないくらいだからな」
「それにあの方の場合は、外にも自由に行けるからな」
「あぁ。外の子か。たいそう綺麗な子だと聞いたことがあるぞ」
「綺麗なだけでなくて……今度のは、どこぞの御曹司だそうだ」
「御曹司? それはまた……。そういうのもアリか?」
「おかげで寄進が凄いらしい。僧正さま達は大喜びで、その子ひとりに絞るように進言してるらしい。本命ともなれば、さらに寄進は増えるだろうからな」
「じゃあ、そのうち……」

ふっと、会話をしていたふたりの目が悟空の方を向く。
くすくすと、どこか意地の悪い含み笑いが漏れる。

「三蔵さまのお相手をしているのは、お前だけじゃないんだ。自惚れるなよ。いま、ここにはお前しかいないかもしれないが、そんなのいつまで続くかわかったものじゃない」

笑い声に後押しされるように、胸を反らせるようにしてリーダー格の若い僧が言う。

「知ってる、そんなこと」

溜息をつきつつ、悟空は答える。
茶番だな、と思う。
長安の御曹司の話など。
わざわざ聞かせるように会話しなくても、別の人間からもう既に言われている。
そして。

――いつまでも続くものではない。

そんなことは、もう何度も何度も。
目の前にいる連中からだけでなく、いろんな人間から言われていることだ。
いまさら、だ。

「なんだと」

うんざりしたような態度がさらに気に食わなかったのか、リーダー格の若い僧が気色ばんで一歩、前に踏み出した。
と、そのとき。

「なにをしているんです? 三蔵さまは見つかりましたか?」

別の声がした。
振り向くと、若いが三人よりは少し年上の僧が立っていた。

「いえ。まだ……。いま、この子供に聞いていたところだったのですが……」

しどろもどろ、といった感じでリーダー格の若い僧が答える。
少し年上の僧は悟空を見、それからまたリーダー格の若い僧にと目を向ける。

「知らないというのであれば知らないのでしょう。他を探してください。急ぎなのですよ」
「わかりました」

バタバタと三人が走ってその場を離れる。
それを見送り、若い僧は悟空をもう一度見つめる。

「三蔵さまを見かけたら、執務室にお戻りになるよう伝えてください。長安の街から急用ということで遣いのものが来ていますので」
「わかった」

悟空が答えると、余計なことはいわず若い僧はさっさとその場を離れて行く。
それを少し見送って、また悟空は走り出した。

たかたかと、先ほどと同じようにリズム良く走っていくが。
しばらくしてその足はだんだんと鈍くなり、やがて完全に止まる。
そして。

「……っ」

声にならぬ声をあげ、悟空はその場にしゃがみこんだ。

――いつまでも続くものではない。

いまさら、なのに。
わざわざ言われなくても、そんなことはわかっているのに。
いつか、あの手が離れていくこということはわかっているのに。
それを考えると目の前が暗くなる。

だけど。
だけど、今だけは。

このひと時だけは自分のものなのだから――。

大きく息を吐き出して、パシンと軽く両頬を叩いて立ち上がる。
そして、またなにごともなかったかのように悟空は走り出した。