人と妖怪は一緒にはいられない。
 それは事実。
 だとしたら――。


願い(1)


 執務室の扉を開けたら、足元に丸めた紙がコロコロと転がってきた。
「さんぞ?」
 三蔵はなんだがとても不機嫌な顔をして書類を読んでいる。
「何、これ?」
 足元の紙を拾う。
「そこのゴミ箱に入れとけ」
 三蔵は不機嫌な顔のままそう言うと、また書類を丸めた。
「三蔵、何して……」
 いつもならこんな風には書類を扱わない。例え出来の悪い最低の書類(三蔵談)であっても書いた本人に返すのだからと、前に書類で遊んでいたときにこっぴどく叱られた。なのに。
「これは書類じゃねぇからいいんだよ」
 三蔵が丸めた紙を放った。今度はまるで吸い込まれるようにゴミ箱に入った。
「そんなことしないでゴミ箱を自分の横に持ってくるか、捨てに行くかすればいいのに」
 手に持っていた紙をゴミ箱に入れ、ゴミ箱を持って三蔵のそばに行く。
「メンドくせぇ」
 返ってきた言葉はそれ。なんだか、三蔵らしくてちょっと笑う。
 ふと三蔵が視線をあげてこちらを見た。綺麗な紫暗の瞳。思わず見とれる。
 ずっと、この瞳を見ていたい。ずっとこの人のそばにいたい。
 だけど。
 人と妖怪は一緒にはいられない。
 言われた言葉が頭の中をこだまする。
「何かあったか?」
 いきなり聞かれて、びっくりする。
「何も……ないけど?」
 内心の動揺を押し隠して答えた。
 すると、すっと三蔵の手が伸びてきて手首を掴まれた。そのまま腕を持ち上げられ、袖をたくしあげられる。
「これは?」
 肘の近くにある赤い痣を見て、三蔵が聞く。
「……ぶつけた」
 他に言いようがなくてそう答えた。
 なんでわかったんだろう。別に普通にしていたのに。
「お前がそう言うならいいが」
 三蔵は小さく溜息をつくと手を離して、また書類に視線を戻した。そのまま何も言わず、さらさらと書類に朱を入れていく。
「三蔵……」
「何だ?」
「まだかかるの?」
「あぁ。先に寝てろ」
 三蔵は今日は朝からずっと書類に目を通している。夕飯を食べた後もまた執務室に戻っていった。昨日まで三仏神の依頼で出かけていたから書類が溜まっているのだ。
「終わるまでここにいていい?」
 そう聞くと、三蔵の手が止まった。
「ちゃんと大人しくしてるから」
 ただ顔を見ていたいだけ。そばにいたいだけ。
 人と妖怪がずっと一緒にいれないなら。いつか離れ離れになるその時まで、少しでも長くそばにいたい。
 三蔵が溜息をついた。
「お前な、何をグダグダ悩んでいるのか知らねぇが、言葉に出さないと伝わらないぞ」
「三蔵、なんで……」
 なんで、わかるんだろう。さっきの痣といい。そんなにヘンな様子は見せてないと思うけど。
 三蔵の手が伸びてきて、頭をポンポンと軽く叩かれた。
「夕飯の後に、何かあったのか?」
 紫暗の瞳に優しげな色が浮かぶ。いつもは不機嫌そうなのに、こういうときはとても優しい。
 やっぱり、嫌だ。
 この人と一緒にいれなくなるなんて。そんなの、考えられない。
「さんぞ……」
 その時、ノックの音がした。
 三蔵が舌打ちして、不機嫌そうな声音で答えると、扉が開いた。入ってきたのは、そこそこ年のいった僧と、まだ若い僧。
 二人の顔を見た途端、少し緊張した。年のいった方は、俺が三蔵のそばにいることについて何かにつけて文句を言ってくる。また何か言われるのだろうか。
「夜分申し訳ありません、三蔵さま」
 年のいった方が丁寧に挨拶をした。横で深々と若い僧が頭をさげる。
「先程この者がお部屋にうかがったときに三蔵さまがいらっしゃらなかったと言うので、こちらかと思いまして」
 その言葉に三蔵の視線が俺の方に向けられた。思わず、視線を避けるように俯いた。
「お願いしたいことがありまして。ご存知の通り、この者はかなり優秀な学僧でして、三蔵さまに直接ご指導いただければさらに……」
「無理だな」
 途中で遮って、三蔵がきっぱりと言った。
「三蔵さま……」
「俺は忙しい」
 三蔵の言葉は素っ気なくて、取り付く島もない。
「そこの妖怪――失礼――子供に、構う時間はあるのに、ですか」
 三蔵が冷たい視線を向けたその時、またノックの音がした。
「三蔵さま、申し訳ございません。三仏神さまから火急のお使者がいらしてます。今回のご依頼の件についてとのことですが」
 扉の向こうで、恐縮した態の小坊主の声がした。
 三蔵は立ち上がった。
「とにかく指導の件は時間的に無理だ。そういう時間を作ってほしければ、こっちに回ってくる書類の量を減らすんだな。あと、書類のチェックを厳しくして、くだらんものを紛れさせないようにすることだ」
 年のいった僧の顔に薄い笑いが浮かんだ。舌舐りしているみたいな、そんな笑顔。
「そこの――子供のことが書かれたものでも紛れ込んでいましたか。皆、いろいろと苦労させられていますからな」
 その言葉に、胸が冷えた。
 三蔵が丸めて捨てていた紙には、そういうことが書かれていたんだ。
 俺がここにいることについての苦情が。
 と、また三蔵に軽く頭を叩かれた。
「先に寝てろ」
 三蔵はそう言うと、扉に向かって歩きだした。若い僧が三蔵のために扉を開けた。
「悟空」
 扉のところで、三蔵が振り返った。
「別に誰彼構わず喧嘩をしろとは言わないが、遠慮していると舐められるぞ」
 三蔵はそれだけ言うと、扉の向こうに消えていった。