夏の宝物(1)
「さんぞ、抱いて?」
どこからともなくセミの声の聞こえるのどかな夏の日の午後。いつもの通り執務室で仕事をこなしていた最高僧さまは、養い子の言葉に思わず手を止めた。
――今、なんつった?
顔を上げると、扉のところに立っている子供の姿が目に入った。後ろで手を組み、少し俯き加減で、視線だけ上げてこちらを見ている。
そのいつになく可愛らしい姿に、三蔵はため息をつくと額に手をやった。
「それ、誰にそそのかされた」
「へ?」
ぱっと顔があがり大きな金色の目が更に大きく見開かれた。二、三度、パチパチと瞬きを繰り返す。
いつもの悟空だった。
「どうせ、悟浄あたりに言われたんだろ」
「違うよ」
とてとてと、悟空が机に近づいてきた。そして、椅子に座る三蔵の隣に立ち、
「ね、三蔵。抱いて」
と、もう一度言った。
三蔵の眉間に皺が寄った。
「この間の休み、美味いモン食いに連れて行ってくれるって言ったのに、結局、仕事が入って行けなかったろ? そのときに埋め合わせはするって言ったじゃん」
三蔵の眉間の皺を見て、断られないようにするためか、悟空が言い募る。
「だから、抱いて」
キラキラと、まるで何かを期待しているかのように目が輝いている。
それは新しいオモチャを貰う前の子供のような表情で。
「……意味、わかってねぇな」
思わず三蔵は呟いた。
「わかってるもん」
ぷぅと悟空は頬を膨らませる。その仕草は本当にあどけなくて、見ていて頭が痛くなってきた。
どうしてこんなにも純粋でいられるのだろう。
確かに寺院は世間とは隔絶されている。だが、全てを達観した心清らかな人間だけがいる、美しいもののみの世界では決してない。悟空に対する風当たりはかなり強いから、世間の波に揉まれていないので純粋でいられるのだという話にはならない。
「ぜってぇ、わかってない」
「わかってるって」
「わかってねぇ」
「わかってるもんっ! わかってるから、抱いて」
まるで挑むかのように身を乗り出してくる悟空に、三蔵はため息をつくと、深々と椅子に身を沈めた。
「……その言葉、連呼するな」
そして、疲れたかのように言う。
「その言葉って、抱いて?」
「だ、か、ら」
キョトンとした顔で聞き返す悟空に、三蔵は、一言一言区切るように言うと、懐からハリセンを取り出した。
スパーン。
小気味の良い音が辺りに響き渡った。
「言うなと、言ってるだろうが」
頭を抑えてしゃがみこむ悟空に、上から投げつけるように言葉をかける。
意味もわからずに、誰彼構わずそんなことを言っていたら、いつか痛い目に会う。
そう思ったのは真実。
だが、意味をわかっていないとはいえ、その言葉を誰か別の人間に言ってほしくはなかったことも。
そして、意味をわからずに自分に向かって言ってほしくないことも。
真実。
表面上は、ただ黙ってしゃがみこんだままの悟空をみつめていたが、己の内に巻き起こっている感情の嵐に、三蔵は悪態をつきたい気分になった。
こんな風に簡単に心を乱される存在は、目の前の子供をおいて他にはいない。
「三蔵は、俺のこと、嫌いなんだ……」
しゃがみこんだままだった悟空が、やがて涙目で顔をあげた。微かに唇が震えている。
涙目がハリセンによる衝撃だけではないことに気づいて、三蔵は眉を顰めた。
「いいもん。なら、三蔵には頼まない」
すくっと悟空は立ち上がった。
「八戒に頼むから」
そう言いおいて、くるりと背を向けるとバタバタと部屋を飛び出していく。
八戒に頼む……?
その言葉の意味がわかるまでに一瞬の間があいた。
「おい、悟空っ!」
三蔵が声をあげた時には、もう悟空の姿は執務室にはなかった。