夏の宝物(2)


 散々、逡巡したあとで、三蔵は仕事を放り出し、悟浄宅へと向かった。
 飛び出していった悟空を迎えにいくこと自体は珍しいことではなかった。特に、悟浄と八戒と知り合ってからは、安心して逃げ込む場所ができたからか、ケンカをする度に悟空は悟浄宅にと駆け込み、それを迎えにいくのは、ほとんど義務と化していた。
 とはいえ、最初の時はわざわざ迎えに行くのも面倒で放っておいたのだ。だが、夜になって悟空を連れて八戒と悟浄が寺院を訪ねてきた。
 そして、八戒に『迎えにこないのならば、ウチの子にしちゃいますから』とやんわりと、だがその実、かなり本気で釘をさされた。
 八戒は悟空には甘い。
 それでも今回は、悟浄ではあるまいし、まさか悟空にお願いされたからといって、八戒がその願いを叶えてやるとは思えなかった。
 思えなかったのだが――。
「おや、三蔵サマ。こんなに早くにお迎えとは、めずらしー」
 扉を開けた悟浄が意外そうな顔をした。
 いつもならば、仕事もあるし、自主的に帰ってくることもあるし、夕方以降になってからでなくては迎えにはいかない。
「……八戒は?」
 通されたいつもの部屋には八戒も悟空もいなかった。わざと悟空の名は出さずに三蔵は尋ねた。
「お宅の小猿ちゃんと部屋に閉じこもってる」
 悟浄の返事に、三蔵の眉がそれとわからないくらいにあがった。
 と、カチャリと音がして扉が開き、八戒が顔を覗かせた。
「やっぱりいましたか、三蔵」
 三蔵の姿を見て、八戒は微かに苦笑を浮かべた。
 いつもの八戒で、特に変わったところはない。
 三蔵の周りを取り囲んでいた空気が少し和らいだ。
「何? 八戒、お前、三蔵が来たの、わかったのか?」
「いえ、悟空が……」
 その答えでは全然説明になっていないが、質問した悟浄にはそれで通じる。
 三蔵と悟空の間には、当の二人は特に不思議と思っていないようだが、強い絆のようなものがあって、お互いに近くにいればそれとわかる。
「それにしても、三蔵。今回は何をしたんです? 悟空、いつになく拗ねてますけど」
「何もしてねぇよ」
 この言葉に嘘はなかったが、悟空は『何もしなかった』ことに対して怒っているのだから、ある意味、それは正確な答えではない。
 そうと知りながら、三蔵にはその辺のことを詳しく説明する気は勿論ない。
「そうですか? 三蔵がお願いを聞いてくれないって言ってましたけど」
 三蔵の眉が微かに寄った。
「お願い、ねぇ。小猿ちゃんのお願いって?」
 悟浄が口を挟んできた。
「さぁ。何だか言いたくないようで、それは聞いても教えてくれませんでした」
 八戒は軽く肩を竦める。嘘をついている様子はなかった。
「とにかく、ちゃんと宥めてくださいね?」
 八戒はそう言うと、扉を大きく開けて三蔵を家の奥にと通し、悟空が閉じこもっている部屋の前まで案内した。
「悟空? 三蔵が迎えにきましたよ」
 扉をノックして、八戒が声をかけた。
「ヤダ、三蔵が『うん』って言うまで帰らない」
 即座に中から悟空の声がした。
「でも、悟空……」
「だって、約束したもん。なんでもするって言った」
「……言ってねぇよ」
 口調に強い意志を感じ取って、三蔵はため息とともに言った。
「言った」
 頑固に悟空が繰り返す。
「言ってねぇよ。埋め合わせはするとは言ったが、なんでもするとは言ってねぇ。世の中にはできることとできないことがある。手間かけさすんじゃねぇよ、帰るぞ」
 おおよそ『宥める』とは縁遠い口調で三蔵が言う。普段ならそれでも『三蔵が迎えにきてくれた』という事実だけで、悟空は機嫌を直すのだが。
「でも、できないことじゃない」
 何故か今回はそう簡単にはいかないようだった。
 そして、悟空の言葉に、珍しく三蔵は言い淀んだ。
「で、そのお願い事って何なのよ」
 そこはかとなく重い沈黙が落ちようとしていた。それを避けるかのように軽い口調で悟浄が割って入ってきた。
「悟浄には関係ない」
 だが、悟空からの返事は素っ気ないものだった。
『お願い』の内容については言う気はないらしい。
 たぶん三蔵にハリセンで叩かれて『言うな』と言われたことを守っているのだろう。
 言い出したらきかない面もあるくせに、そういうところは案外素直だ。
 とりあえずこの場で『抱いて』などと言い出さないことに、三蔵は安堵した。そんなことを言おうものなら、この先この二人に何と言われ続けることか。
「とにかく話し合いましょう、悟空。とりあえず、僕だけそっちに行きますから、逃げないでくださいね」
 八戒が『役立たず』とでも言うように、三蔵を軽く睨んでから扉の向こうにと消えた。
「結構頑固だからなぁ、小猿ちゃん」
 ご機嫌が麗しいとはとても言えない三蔵の顔を見て、面白そうに悟浄が言った。
「で、結局、お願い事って何よ? 意味もわからずにキスして、とでも言われたのか?」
 よく三蔵は、悟浄も八戒も悟空には甘いと言うが、結局のところ、一番甘やかしているのは、三蔵だと悟浄は思う。
 悟空のするお願いで、三蔵が叶えてやらないものといったら、そういう類のものしか思いつかないし、沈黙が返ってくるということは、たぶんそれで正解だろう。
「教えてやればいいのに。簡単だろーが。小猿ちゃんのこと、嫌いではないんだろう?」
 というよりも、寧ろ大切に思っている。大切すぎて、というやつだ。
 ただ、たぶん単純な子供にはまるっきり伝わっていないのでは、と思うとなんだか気の毒にもなってくる。それと同時に、普段はあんなにも自己中心的なのに、悟空に対する我慢強さが一体どこからくるのかと不思議に思う。
「こうやって手を伸ばせばいいだけだろ」
 悟浄は三蔵の腕を捕まえた。途端に三蔵の顔に嫌そうな表情が浮かぶ。
 基本的に三蔵は他人に触れられるのを好まない。それは、親しくなっても変わらない。ただ一人を除いて、露骨に嫌そうな顔をする。
 それなのに、そのただ一人は、きっとその事実に気づいていない。
 悟浄は苦笑を湛え、腕を引いた。
 時々、そういう想いを抱けることを羨ましく思う。だから、嫌がらせをしてみようという気にもなる。
 もう片方の手も三蔵の腰に伸ばして引き寄せた。
 華奢、だと思っていたが、案外筋肉のついている細身の体が腕に収まる。
 三蔵は端整な顔に嫌そうな表情を浮かべたまま、悟浄を睨む。が、特に危機感は抱いていないようだった。
 と、扉が開く音がした。二人は揃って、そちらの方を向いた。
 驚いたような顔をした悟空の姿が目に入った。その表情が、一転して引き歪む。
 何も言わずに顔を伏せ、悟空は駆け出した。まるで逃げるかのように、外へと一直線に向かう。
「悟空っ?!」
 八戒の声にも立ち止まらず、その姿はすぐに見えなくなった。
「あなた方は……」
 八戒が笑顔を浮かべた。