遠い日の約束(1)


「おっかえりー」
 三蔵が玄関の扉を開けると、その音を耳聡く聞きつけたのだろう。パタパタという足音とともに、片手におたまを持った悟空が姿を現した。
「お疲れさま。ご飯にする? お風呂にする?」
 悟空はそこで一度言葉を切った。それから片手を腰にやり、おたまを持ったままのもう一方の手を左右に振り動かした。
「そ、れ、と、も、俺?」
 その台詞に、三蔵は深いため息をついた。
「……メシ」
「ええぇぇ?!」
 疲れたかのように搾り出した一言に、悟空は不満そうな声をあげた。
「むぅ。この格好ならいけると言われたんだけどなぁ」
 唇を尖らせて、ピラッと裾を広げて見せたのは、フリフリの白いエプロン。
「なんだ、その格好は」
「えっと、旦那さまの帰りを待つ、新婚ホヤホヤの新妻風。うーん、色気が足りなかったか?」
「もとからねぇよ、そんなモン」
 三蔵の言葉に悟空はむっとした顔をする。それから拳をつくって腕を引いた。
「何をしてる?」
「色気、でねぇかと」
「必殺技じゃねぇんだぞ」
 呆れたかのように三蔵は言い、悟空の横を通って自室へと向かう。
「ご飯、もうできるから、着替えたらすぐ来てね」
 後ろから、色気うんぬんというやりとりをしていた割には全然普通の、悟空の声が追いかけてきた。
 三蔵は軽く眉をしかめた。

 夕飯を食べて、夕刊に目を通し、いくつかのニュース番組を見た後で、三蔵は風呂に入った。背中を流す、と言ってきた悟空を撃退して、ゆっくりと湯船につかる。
 本当なら、これで一日の疲れがとれるはずだ。
 三蔵はため息をついた。
 だが、この頃では全然効き目がない。というのも、家もまた安らげる場所ではなくなっていたからだ。
 会社から疲れて帰ってきて、なんで家でも疲れなきゃならんのだ、と思う。
 が、たぶん、風呂から出れば、最後の関門が待ち構えているのだ。
 三蔵は再度ため息をつくと、意を決したかのように湯船から出た。
 
 そして、自室。
 予想に違わず、悟空はそこにいた。三蔵のベッドの上で胡坐をかいている。
「三蔵」
 三蔵が部屋に入っていくと、悟空は嬉しそうな顔をした。
 明かりを消し、微かに軋む音をさせて三蔵がベッドに腰掛けると、悟空は手を差し伸べ、三蔵の首の後ろに回して体を預けてきた。
「三蔵、大好き」
 囁くように言って、目を閉じる。
 三蔵はゆっくりとベッドに悟空を押し倒した。
 そして。
「三蔵」
 悟空が不満そうな声をあげる。
 それに背を向けて三蔵はベッドに横になった。
「ねぇ、三蔵ってば」
 背中に悟空の手がかかる。
「煩い、俺は疲れている。大人しくしないのなら、蹴落とすぞ」
 素っ気なく告げた言葉に、悟空の「むぅ」という声が聞こえてきた。
 だが、ここで何を言っても無駄なのは経験上、嫌というほど知っているはずだ。そして、しつこくすれば、本当に蹴落とされるということも。
「……おやすみなさい、三蔵」
 少し拗ねたような声が聞こえてきた。そして、背中に抱きついてくる柔らかい感触。
 三蔵は悟空に気付かれぬようため息をついた。

 規則正しい寝息が聞こえるようになった頃、三蔵は隣で眠る悟空を起こさないように、そっと身を起こした。
 暗闇に慣れた目に、安らかな顔をして眠っている悟空の姿が映る。
 そっと頬にかかる髪を払いのけるかのように優しく撫でる。
 寝顔は昔と全然変わっていない。
 最初に悟空と会ったのは、八年前、養父が亡くなった直後のことだった。
 あれは、桜の咲き乱れる深夜の緑道。
 もとは川だったところを埋め立てて作られたその緑道には、道に沿って桜の大木がずっと植わっていたが、公園ではないせいか、住宅地の真ん中にあるせいか、例年、夜桜見物をしているような人間は一人もいなかった。
 それがわかっていたから、三蔵は一人、深夜によくこの緑道を散歩していた。
 柔らかな月の光と、仄かに光る薄紅色の桜。見ていると不思議と安らかな気持ちになった。
 その日もそぞろ歩きをしていたが、突然、前方に子供がひとりぽつんと立っているのに気付いた。
 舞い散る桜の花びらの中に佇む子供。
 桜の精かと思った。
 そんなことはありえるわけがないと、頭の隅ではわかっていた。だが、どこか儚げな、子供らしくない表情を浮かべる子供に、そうであっても不思議ではない気がした。
 見つめている視線を感じたのか、ふと、子供が三蔵の方に目を向けた。
 滅多にない、不思議な色合いの目に一瞬、息がとまる。
 綺麗だった。
 子供は、三蔵を認めるとにっこりと笑った。
 無邪気な笑顔。
 たぶん、そのせいだろうと思う。ここに連れ帰ってきたのは。
 他人を――しかも、見も知らぬ人間を自分のテリトリーに招きいれるなど、普段の三蔵からすると考えられないことだった。
 子供は『悟空』と名乗ったが、その他のことは一切答えなかった。というよりも、それ以外のことはよくわからないようだった。
 結局、養父が亡くなる直前に指名していった『後見人』の手を借りることになった。
 後見人は瞬く間に、悟空の素性を調べ上げてきた。三蔵と同じようについ最近、養父を亡くしたこと、天涯孤独の身であること。
 そして美しい口元に笑みを浮かべて、引き取ることにした、とあっさりと言った。
 一緒に暮らすように命じられて、三蔵は抗議の声をあげようとした。だが、
「拾ったモンの面倒は最後までみろ。それができないなら、拾うな。一度、人間の手の温もりを教えといて、引き離すのは可哀想じゃないか」
 と言われて、言葉に詰まった。
 捨て犬とか、捨て猫とかではない、と思った。だが、三蔵のそばを離れずにくっついている子供の手を放すことは、できなかった。
 それは、可哀想に思ったとか、後見人の言うような拾ったものの義務とかではなかった。
 たぶん、そのときにはもう惹かれていた。
 年端もいかぬ、子供の悟空に。
 頬を撫でていた手を滑らせて、髪の毛を弄ぶかのように梳く。
 ゆっくりと顔を近づけて、触れるだけのキスを唇に落とした。
 眠る悟空に、もう何度、こんなことをしただろう。
 三蔵の口の端が少しあがり、自嘲めいた笑みを形作る。
 あんな風に誘わなくても、もうとっくに落ちているのだ。
 今、手を伸ばせば、この存在を永遠に自分のモノにできるだろうか。
 ここのところ、何度も考えていることが頭の中を巡る。
 だが、悟空があんなことを始めたのはつい最近のことだった。
 それまでは、たぶん世間一般でいう『兄弟』と接し方は何ら変わらなかった。
 と言っても、その言葉は、互いを他人に紹介するときには使われるもので、二人きりのときに悟空から『兄』と呼ばれたことは一度もなかったのだが。
 でも、それは本当の兄弟ではないから、というだけのことであって、悟空が三蔵に対して特別な感情を抱いているというわけではなかったと思う。
 それが、一変した。
 これが本当に悟空の心からの行動であれば、話は簡単だ。手を取って、引き寄せればいい。だが、あまりにも突然すぎた。
 一体、何を考えているのか。
 何度も聞いたが、答えは「三蔵のことが好きだとわかったから」と言うだけだった。
 子供の頃に、ほとんど攫うようにして、手元に置いた。
 本当だったら、別の、もっと大人の保護者のもとで育つ筈だったのに、まだまだ子供だった三蔵とともに、身を寄せ合って生きることになった。
 だから、いつでも悟空が別のところに行きたいと言ったときには、手を放そうと思っていた。
 惹かれながらも、いつかは離れていくのだからと何も告げずにいた。
 自分の元から離れていく権利、それだけは残しておいてやりたかった。
 だが。
 このまま手を伸ばせば、この手の中にずっと閉じ込めておくことができる。
 何かあるとわかっていても、それに目を瞑れば、永遠に自分のモノになるのだ。
 三蔵はため息をついた。
 ――お前は、頭で考えすぎるんだよ。
 脳裏に、美しい後見人の言葉が浮かんできた。この間、久しぶりに自宅に招かれたときに言われたこと。
 そして、ふと気がついた。
 そういえば、悟空の態度がヘンになったのは、その後のことだ。一緒に後見人に会いに行って、しばらく悟空は後見人と二人だけで話していた。
 三蔵とは違って、悟空はあの後見人に懐いているので、それは特別なことではなかった。
 だから、気にも留めていなかったが。
 もしかして、あのときに何か吹き込まれたのだろうか。
 三蔵は眉間に皺を寄せた。