遠い日の約束(2)


 翌日の午後。
 三蔵は、社長室にずかずかと入り込んだ。
「オラよ」
 見るからに高価そうな机に、書類を投げつける。
「相変わらず、礼儀を知らねぇガキだな」
 パソコンのモニターの影から、美しい顔が覗いた。赤い口紅、見事なプロポーションを強調するかのような、体に張りついた、やや露出度の高い服。一歩間違うと、水商売風に見られてしまうだろうが、身についている優雅な雰囲気がそれを救っている。
「それが嫌なら、さっさとクビにしろ」
 不機嫌そうな顔を隠そうともせずに、三蔵が言う。
「いいのか? あの約束が反故になるぞ」
「俺は働く気があるのに、てめぇが勝手に辞めさせるんだ。つまり、俺に落ち度はないから、約束は有効だ」
 その言葉に『社長』であり、三蔵の『後見人』でもある観世音菩薩は、クスリと笑った。
「そうきたか。可愛げのないガキだ」
「それよりも、悟空に何を吹き込んだ?」
 三蔵の表情が険しくなる。綺麗なだけにそれは凄みを伴うものだったが、観世音菩薩は涼しい顔で受け流した。
「なんだ、もう落ちたのか?」
「落ちてねぇよ。……って、クソババア、やっぱり、何か吹き込みやがったな」
「口のきき方に気をつけろ」
 机に手をついて身を乗り出してきた三蔵の額を、観世音菩薩は三蔵が放った書類を丸めてペシッと叩いた。
「別に吹き込んじゃいねぇよ。ただ、チビがお願いがあるっていうから、その願いを叶える条件を出しただけだ。タダで叶えてやれるような安い願いじゃなかったからな」
 どんな些細な願いごとでもきっと条件をつけるだろう、と三蔵は思ったが口には出さなかった。それよりも聞きたいことがあった。
「どんな願い事だ?」
「ん?」
「あいつの――悟空の願いは何だと聞いている」
 今まで、悟空は一度もこんなことをしたことがなかった。願い事はいつでも三蔵にしてきた。悟空の願いを叶えられるのは三蔵だけだった。
 そんな三蔵の様子を観世音菩薩は面白そうに見た。
「気になるか? だが、教えるわけにはいかないだろう。それはチビの願い事であって、俺のじゃねぇからな」
 言外に聞きたいなら、本人に直接聞けと言っている。
 三蔵は舌打ちをすると、足音も荒く、社長室を後にした。

 気になるといてもたってもいられなくなり、三蔵は「急病」と主張して、会社を早退した。
 何もそこまですることはないと理性は言っていたが、心の中は嵐さながらで、どうせ会社にいても仕事にはならなかった。
「悟空」
 家に戻るとすぐに、悟空の名を呼んだ。だが、いつもであればすっ飛んでくるはずなのに、沈黙が返ってくるばかりだ。
 家中を見て回り、最後に悟空の部屋に入って、三蔵はまだ学校が終わる時間ではないことに気がついた。
 そんなことにも頭が回らないほど、混乱していたらしい。
 ふっと息をついて、このところずっと使われていない悟空のベッドに腰をおろした。
 と、目線の先、本棚に何かの封筒が挟まっているのに気付いた。普段であれば、見過ごしてしまうだろう。だが、少し端がはみでていてそれが目に留まった。本ばかりがつまった棚にそれだけが異質で、三蔵は何の気なしに立ち上がると、封筒を引っ張り出した。
 特に何かあると思っていたわけではない。
 だが、その封筒の表の下に印刷されているロゴを見たとき、三蔵の表情がかすかに訝しげなものになった。
 桃源不動産、と入っていた。
 どこかの予備校とか、大学とかの封筒であれば違和感はない。だが、高校生の本棚に入っている封筒としてはそぐわないだろう。それとも、ただその辺にあった封筒を使っただけで、中身は違うものが入っているのだろうか。
 三蔵は、中身を引き出した。
 と、そこにはアパートの賃貸契約書が入っていた。
 険しい表情で、パラパラと書類をめくっていく。本物のようだ。
 保証人のところが空欄になっていた。
 無意識のうちに契約書を握り締めていた。
 願い事。
 それはこれなのだとわかった。
 三蔵の元を離れること。そのための保証人になってもらうこと。
 目の前が暗くなっていくようだった。
 もし望むのならば、いつでも手を放そうと思っていた。
 だが。
 これは違うだろう、と思った。
 三蔵の元を離れるために、その身を差し出そうというのか。
 ただ、それだけのために。
 三蔵は唇を噛みしめた。

 どのくらいそうやって、本棚の前で突っ立っていたのかわからない。
 玄関の開く音がして、次いで、パタパタと軽い足音が近づいてきた。カチャリと扉が開く。
「三蔵?!」
 悟空の驚いたような声が響いた。
「びっくりした。何? 今日は会社、早かったの?」
 かばんを床に放り投げて、悟空は三蔵の方にと近寄ってきた。
「さんぞっ?! どうしたの? 唇、切れてるよ?!」
 そして、三蔵を覗きこんだ悟空が、再度、驚きの声をあげた。
「救急箱っ! あ、でも唇って、普通の薬じゃ駄目だよね。えっと、リップクリーム。リップクリームなんて、あったっけ?」
 わたわたと慌てたように言い、部屋から出て行こうとする。
 その腕を三蔵が掴んだ。
「さんぞ……?」
 引き寄せて、抱きしめた。強く、己の腕の中から逃れるのを許さないかのように。
 悟空は微かに息をのんだが、何の抵抗も示さなかった。腕の中に収まったまま、じっとしている。
 少し力を緩め、悟空の頬に手をやって上を向かせた。
 不思議そうな表情を浮かべる悟空の顔が目に入った。
「三蔵、どうしたの……?」
 悟空は、いつもとは違う三蔵の様子に戸惑ってはいるようだが、特に何かされるとは思っていないようだ。まっすぐに三蔵をみつめて問いかけてきた。
 それには答えずに、三蔵は己の唇で悟空の唇を塞いだ。
 驚いたかのように、悟空が三蔵の服をぎゅっと握った。だが、構わずにキスを続ける。そして、ゆっくりと唇の間を舌で割って入った。
 悟空の体がピクリと震え、まるで逃れようとするかのように、手が三蔵の胸を押した。
 三蔵はキスをしたまま、悟空の手を片手で捕まえ、それから、別の手を腰にまわすと、さらに自分の方にと引き寄せた。
 蹂躙するかのように、舌を絡め、悟空の口腔を荒らしまわる。
 ずっと、こうしたかったのだ。
 触れるだけのキスではなく、もっと、もっと深く。何もかも奪いつくすようなキスを。
 何度も角度を変えて、キスをする。時折、悟空の口から切なげな甘い声があがる。それを聞いているだけで、頭の芯が痺れてくる。
 まるで麻薬のよう。
 強い刺激と甘い感覚。何度、貪るようにキスしても足りない。
 キスだけでは足りない。
 三蔵は、一度、唇を離すと悟空を抱き上げた。そして、近くのベッドにそっと横たえる。
「さんぞ……」
 今にも泣きそうな目で悟空が見上げてくる。それにキスを落とした。
 優しく、安心させるかのように、柔らかく。
 いつの間にか、書類のことは頭から消え去っていた。
 ただ、目の前にいる存在だけが愛しかった。
「悟空……」
 囁いて、またキスを落とした。