コクハク(1)
「ねーちゃんっ!」
部屋に通されるなり、どっしりとした机の向こうにいる人物に食ってかかった。
「相変わらず煩せぇよ、お前」
だが目の前の存在は、手にした書類に落とした視線はそのままにただ面倒臭げに眉をあげただけ。
「って、人と話をするときはちゃんとこっちを見ろよ」
「人、ならな。煩い小猿と話をするのに、いちいちそんな面倒なことしてられるか」
「おいっ」
可愛い『弟』に向かって、それはないだろう。
パラリとめくった書類を手で押さえて、強引に机の上に下ろす。そこでようやく、ねーちゃんはこっちにと視線を向けた。
「あの家庭教師、一体どんな基準で選んだんだよ」
「顔」
問いかけに対する答えは簡潔にして明快。だけど、予想外のことで一瞬、思考が停止した。
その隙にまたもやねーちゃんは書類にと視線を戻す。
「何で家庭教師を選ぶ基準が顔なんだよ」
「人生、少しでも楽しみがあった方がいいだろうが。お前の好みを考えて選んでやったんだが、アレは好みじゃなかったか?」
うっ。
言葉に詰まる。
……確かに、好みだよ。
柔らかそうな金色の髪。たれ目だけど、眼光自体は鋭い紫の瞳。通った鼻筋。少し厚めの唇。
凄く綺麗で、自他ともに認める面食いの俺の好みにジャストミートってやつ?
参考書を見るのに視線を落とすと、白い頬に長い睫毛の影が落ちて、思わず見とれるくらいに綺麗。
だけど。
「性格、悪すぎ」
少しでもわからなかったり、間違えたりすると、容赦なく参考書を丸めてポコポコと殴りつけてくる。
これじゃあ、悪い頭が余計に悪くなる。
「性格の良い美人には会ったことねぇぞ」
事もなげにねーちゃんは言う。
「……確かに。ねーちゃんも美人だもんな」
思わず呟いた言葉にねーちゃんが顔をあげた。
「どういう意味だ、それは」
「お姉さまはとてもお綺麗ですってこと」
ふざけたように返したが、ねーちゃんが綺麗なのは事実だ。俺が面食いなのは、物心ついたときから、こういう人が義理とはいえ『姉』で近くにいたからってのもあると思う。
「そんなことより、ねーちゃん、職権を乱用して無理矢理、三蔵に家庭教師をさせてるだろう」
「人聞きの悪いことを言うな。ちゃんと合意の上だし、特別手当も出してるぞ」
「あのなぁ。新入社員が社長の言うことに逆らえるかっての」
「別に嫌なら嫌って言えばいいんだ。そんなことをイチイチ気にするほど、俺はケツの穴が小せぇ人間じゃねぇぞ」
「……お姉さま、表現がお下品です」
表現うんぬんはともかくとして、ねーちゃんがそういう性格だっていうのは知っている。
「とにかく、三蔵が辞めたいって言っても、ねーちゃんは口出ししないし、これから差別もしないよな」
だが言質をとるかのように口に出した。
「当たり前だ」
その言葉を得て、思わず笑みが浮かんだ。
「なんだ、お前、辞めてほしいのか?」
「違うよ」
辞めて欲しくなんかない。
だけど、嫌なことを無理矢理させるのはもっと嫌だ。
「じゃ、三蔵にはそう言っておく。忙しいのに、悪い」
そう言って部屋から出ようとしたが、ふいに思い出してリュックの中に手を入れた。
「これ、差し入れ」
綺麗にラッピングしてリボンまでかけたチョコレートクッキーを机の上に置く。
「三蔵に持っていったのに、甘いの、苦手だって言うから」
にべもなく言われて、手もつけないどころか見向きもしなかった。せっかく奮発して良いチョコレートを選んだのに。
ねーちゃんがクツクツと喉の奥で笑い声をたてる。
「いらないなら持って帰る」
ちょっと気分を害して、机の上のクッキーを取り上げようとしたが、ねーちゃんの手の方が早かった。
実は、ねーちゃんは甘いモノ好きだ。
その綺麗な顔に、にっと笑いかけると、苦笑が浮かんだ。
「じゃ、ね」
「悟空」
リュックを閉めて帰ろうとしたら、ねーちゃんに呼び止められた。
「お前なら、こっちとそっちどっちが良い?」
右手と左手それぞれにデザイン画を持っている。
ロングのドレス。緩やかなドレープを寄せたものと、シンプルでいながら凝った刺繍を施したものと。
「へぇ。左の刺繍の、凄く綺麗だね」
寄って行って、じっと見つめる。よく見ると、面白いカットがしてあって、動くと光を反射してまた違ったイメージになりそう。
「俺としては左のが好きだけど、でも、右かな。ドレープの方。そっちの方がねーちゃんのイメージ。左のは同じバリエでミニが見てみたいなぁ。裾だけに刺繍する、なんてのだと凄く可愛いと思うんだけど」
ほう、と呟きながら、ねーちゃんは改めてデザイン画を見比べる。
「ねーちゃん、ショーで忙しいのはわかるけど、たまには家に帰ってこいよ」
もう既に仕事に没頭してしまったねーちゃんにそう声をかけると、ねーちゃんはヒラヒラと手を振った。それを見届けて、部屋をあとにした。
ことの起こりは夏休み前の期末テストの成績だった。
かなり惨憺たるもの。
バイトに明け暮れて、まるっきり勉強をしてなかったのだから、当たり前といえば当たり前。
普段は成績のこととか全然口を出さないねーちゃんだったが、担任の先生がわざわざ連絡をしたのを受けて、俺にどうするかと聞いてきた。即ち、このままだと留年するがそれでもいいか、それとも家庭教師をつけるか。
すっごい競争率だったのを勝ち取ったバイトを辞めろと言わないのは、ねーちゃんらしかったし、家庭教師にしてもバイトが終わった後で、と言われた。結局のところ、俺が一番やりたいことをちゃんと考えてくれている。それはとても嬉しかった。
ねーちゃんと俺は、この世で二人っきりの姉弟だけど、血は繋がっていない。
今は縁遠くなってしまったが、ねーちゃんの母方の祖父の妹の嫁ぎ先がお寺で、昔はたまにねーちゃん一家もそこに遊びに行っていたという。
そして、その門の前に俺が捨てられていた。
まるで猫の子かなにかのように。
事実、最初に見つけたねーちゃんは猫かと思ったそうだ。だけど赤ん坊で、大騒ぎになった。
捨てた両親を探したが手がかりもなく、俺は施設に送られる手続きが取られたそうだが、『引き取りたい』と、まだ少女だったねーちゃんが言い出した。
今でもそうだが、言い出すと結構ねーちゃんは頑固だ。世話は自分がすると主張し、結局、両親が折れた。
後で知った方がショックが大きいだろうということで、俺は物心ついたときから、両親やねーちゃんとは血が繋がっていないのだということは知っていた。
だけど、だからと言ってどうということはなかった。
ただ、どうして俺を引き取ろうと思ったのか、ねーちゃんに聞いたことがある。
『拾ったモノの義務』とねーちゃんは答えた。が、あとで母さんがこっそりと教えてくれた。
拾ったとき、俺はねーちゃんの指をぎゅっと掴んで放さなかったそうだ。きっと情が移ったんだろうと母さんは笑っていた。
自分が世話をする、と主張した言葉通り、俺はねーちゃんに育てられた。ま、後ろでハラハラしながら母さんが見守っていたんだけど。結構、スッゴイことをしでかしたりもしたそうで……。ま、それはともかくねーちゃんは一生懸命俺の世話をしてくれたし、端から見ているとわかりにくいかもしれないけど、可愛がってもくれた。
ねーちゃんは服飾デザインの勉強をして、その方面の仕事についた。そして、俺が中学の時に独立した。だが、ちょうどその頃、両親が事故で亡くなった。
ねーちゃんは大変だったと思う。独立したばかりで、両親を亡くして、まだ未成年の『弟』が抱えて。
でも、ねーちゃんはいっつもまっすぐ前を向いている。それは強くて眩しい。大好きだと思う。だから、俺もちゃんと自分の足で立てるようになりたい。
そのためにも、留年は避けたかった。来年、卒業してからやりたいことがあったから。ということで、家庭教師を頼むことにした。それがねーちゃんに甘えることになることはわかっていたけど、『甘えられるうちは甘えとけ』というのもねーちゃんの口癖だったから、素直にそうすることにした。