コクハク(2)


 バイトが終わって、バイクを飛ばしてマンションについたのは、二日前と同じ、午後十時五分前。
 月・水・金の午後十時からの二時間、先生宅にて勉強。
 これがねーちゃんが探してきた家庭教師。
 話を聞いたときは、こんな遅くから、しかも自宅で勉強させるなんて、と思ったが、全部、ねーちゃんがその家庭教師に突きつけた条件だったそうだ。
 家庭教師の綺麗な先生は、不機嫌そうな顔を更に不機嫌そうにし、迷惑そうな口調でそう教えてくれた。
 ウチに呼ぶよりも先生宅に俺を向かわせた方が早いし、先生も往復の時間がない分、ラクだろうとねーちゃんは考えたらしい。なんといっても自分のトコの社員だし、朝に差し支えては困るということみたいだけど、前提条件に自分のトコの社員を使うこと自体が間違っているんじゃないかな。
 時々、ねーちゃんの考えることはわかんない。
 ま、とにかく、辞めても大丈夫という言葉はとりつけたし、これでもう迷惑をかけることもないだろうな、と思う。
 凄く残念だけど。
 いや、迷惑をかけることが、じゃなくて、会えなくなるのが。
 マンションに入っていく。入り口のポストでもう一度部屋番号を確かめる。
 玄奘三蔵。
 それが、家庭教師の名前。
 別にオートロックでもないマンションだったから、部屋の前まで行って扉をノックする。
 やがて、扉が開いた。
 少し不機嫌そうな顔が覗く。
 でも、凄く綺麗。あぁ、やっぱり、好みだよなって思う。
「あのね、三蔵。家庭教師のことだけど」
「中入れ」
 早速話を切り出そうと思ったら、三蔵に遮られた。
「あ、うん。お邪魔します」
 まぁ、玄関で立ち話もなんだから、部屋の中に入る。
 相変わらず、余計なもののない片付いた部屋。といっても、初めてきたのは一昨日のことだから、モノも増えようがないんだろうけど。
 真ん中にあるテーブルに三蔵は向かう。
 三蔵、という呼び方は、初日にそう呼べと言われた。先生、と呼びかけようとしたら、本職の先生じゃないからと言われ、玄奘さん、と呼びかければ、三蔵でいいと返された。
「ね、三蔵、家庭教師のことだけど、嫌なら断ってくれていいんだよ」
 椅子に座った三蔵は、訝しげな顔をこちらに向けた。
「ねーちゃん、ワンマンだけど、根に持つタイプじゃないし、嫌なものは嫌って言っても怒ったりしないし、それにこの話、断っても三蔵の将来のこととかに響かないってちゃんと約束してくれたから」
「それ、社長に話したのか」
「うん」
 そう答えたら、三蔵はため息をついた。
 なんかちっとも嬉しそうじゃない。
「別に、嫌なら嫌と最初から断っている。一昨日、あぁいう言い方をしたのは、お前があんまりにも無邪気そうだったからだ」
 それから三蔵は小さく『悪かったな』と言った。
 が、それはどうでも良かった。
「ってことは、三蔵、家庭教師、続けてくれるの?」
「嫌か?」
「まさか。嬉しい」
 顔がほころぶのを止められない。笑顔のまま三蔵の方を見たが、三蔵はなんだか苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
 何だろう。
 何か知らないうちに機嫌を損ねることでもしたかな。
 笑顔を消して、神妙な顔になるよう努力する。
「参考書、出せ」
 三蔵の声に、リュックから勉強道具一式を取り出した。

 三蔵に家庭教師をしてもらうようになってから一か月ちょっとが過ぎた。
 夏休みの間はそうでもなかったけど、新学期が始まると、学校とバイトと勉強と。なんだか時間に追われるようで、結構タイヘンな日々を過ごすようになった。
 だけど、家庭教師の日には欠かさず三蔵の部屋を訪ねた。
 やっぱり、ねーちゃんは凄い。
 これが三蔵以外だったら、ここまで熱心に通っていたか怪しいところだ。
 といっても、もちろん勉強が目的ではない。
 ただ三蔵に会いたい。
 それだけ。
 最初に好きだと思ったのは、綺麗な顔だった。だけど、会うたびに『好き』が増えていった。
 低く響く声も、長い指も、ちょっとしたことですぐに機嫌を損ねる子供っぽいところも、神経質そうに見えて意外に物事に拘らないところも、かと思ったらヘンなとこに拘りがあるところも。
 全部、三蔵だから大好きだって思う。

「お前、それ、どうしたんだ?」
 ある日、いつものように勉強をしに三蔵の部屋に行くと、肘のところに巻いたハンカチに三蔵がちょっと眉根を寄せて聞いてきた。
 なんだか心配してくれているみたい。
 実はズキズキとまだ痛んでいたんだけど、ちょっと嬉しくなった。
「火傷。バイト先でドジって。オーブンの天板に触っちゃったんだ」
「見せてみろ」
 そう言って三蔵はハンカチを取り除いたが、眉間の皺がますます深くなった。
 そのまま、腕を捕まれてキッチンにと連れて行かれる。
 水道の蛇口をひねり、流れ出す水の下に肘を置かれる。
「ちゃんと冷やしたのか?」
「えぇっと……。でも、触ったって言ってもほんのちょっとだったし」
「遅れるとか思って、手当てもそこそこに出てきたのか?」
 う……。図星で言葉がでない。
 結構、三蔵は時間に煩くて、前に道が事故で封鎖されてて十分くらい遅れた時に、かなり不機嫌だったのだ。
 不可抗力の事故でさえそうなんだから、こんな不注意の怪我で遅刻した日にはもっと機嫌が悪くなるかも。そう思ってとりあえず水で濡らしたハンカチだけ巻いて飛び出した。
「そういう時は連絡しろ。別に遅れても構わないから」
 その台詞に本当に心配してくれているんだとわかった。
 なんだか嬉しい。
 俺の腕を掴んだままで横にいる三蔵の顔を見上げた。と、その気配に気付いたのか、三蔵もこちらを見る。
 目が合ったのは束の間で、三蔵は苦虫を噛み潰したような顔をすると、手を放して、くるりと背を向けた。
「しばらくそのまま冷やしてろ」
 そして、そう言うと離れていく。
 なんだかな。
 流れる水を見つめて思う。
 人が笑顔を向けるたびに、三蔵はあぁいう表情をする。
 俺、嫌われてるのかな、やっぱり。
 そう考えてちょっと落ち込む。
 原因はないこともない。
 悪気があってやっているわけじゃないけど、そんなに嫌なら言えばいいのに。
 蛇口をひねって水を止めた。
「な、三蔵。あれ、そんなに嫌?」
 もう勝手知ったるで、かかっていたタオルをとりあげると、腕を拭きながら三蔵のいる部屋に戻る。
「何が?」
 テーブルの上に救急箱が載っていた。腕を掴まえられて、薬を塗られる。
「お菓子」
 それから器用に包帯を巻いていく様子を見ながら言う。
 三蔵の手がちょっと止まった。
「嫌も何も。ほとんどお前が食ってるだろうが」
 一時間ほど勉強したところで、休憩をする。集中力が切れるからと俺が要求したものだった。
「だって、腹減るし」
 そして、持ってきたお菓子を出す。最初は遠慮したんだけど、今では持ってきた分、ほとんど自分で食べてる。だけどホントは三蔵に食べて欲しいから、一口くらいは付き合えと強要している。やっぱり、それがいけなかったのかなぁ。
「な、お菓子、そんなに嫌い?」
「別に」
 素っ気ない三蔵の答え。また包帯巻きを再開させる。
 それを見ながらさらに落ち込んでいく自分を感じた。
 だって、お菓子が原因じゃないとすると、これはもう根本的に俺の性格が嫌いとか、俺の顔が嫌いとか、ただ単に俺が嫌いとか……。
 あ、なんか悲しくなってきた。
 ふぅっと知らず知らずのうちにため息が漏れた。