伝える言葉(1)


「うっまーい」
 宿屋の厨房の一角で、手にした握り飯を一口食べて、悟空が満面の笑みを浮かべた。
「やっぱり八戒の作る飯は最高」
「ただのお握りですよ。誰が作っても一緒じゃないですか」
「そんなことないよ」
 はぐはぐと瞬く間に一個を平らげて、悟空は次へと手を伸ばす。
「だって、俺が作ったらこんな風に綺麗に三角になんないもん。前に作ったとき、手にくっついちゃうし、ポロポロこぼれるし。食い物を粗末にするなって怒られた。別に、粗末にするつもりなんかなかったのに。拾って食おうとしたら、今度は意地汚いことはするなって、また怒るし」
 そのときのことを思い出したのか、悟空の頬がぷぅっと膨らんだ。
「三蔵らしいですね」
 とても十八歳には見えない可愛らしいその様子に、八戒がクスクスと笑いを漏らす。
「あ……うん」
 が、悟空の表情が一瞬、曇った。
「どうかしましたか?」
「ううん。別に『三蔵』って言わなかったのに、よくわかったな、って」
「あまりに三蔵らしい言い方ですから」
「そっか」
 あっさりと悟空は納得するが、別に言い方うんぬんがなくてもわかるだろう、と八戒は思う。
 基本的に悟空の話に出てくる人間は、三蔵しかいない。もちろん、八戒や悟浄やその他の人たちの話が出てこないというわけではないが、圧倒的に三蔵の話が多い。
 無理もないことだ。
 あの寺院で、三蔵以外の人間からは疎まれて育ったのだから。
 そのせいだろうか。
 寺院にいた時のことを話すとき、さっきのように悟空の表情がまれに曇る。
 相当風当たりが強かったのは、察するまでもなかった。寺院の話が出るとあんな表情を見せるのは、そのときにあった辛いことも一緒に思い出すためなのだろうか。
 それにしても、どうしてこんなに無垢な子が妖怪だというだけで蔑まれているのか理解できなかった。
 何度もあの寺院から連れ出そうとした。
 何も好き好んであんなところにいることはないと思って。外の人間の方がもっとずっと優しいし、何よりも外の方が自由だろうに。
 だが、そう口にするたびに他ならぬ悟空に断られた。
 ここがいい、と。
「にしても、いつまで足止めを食ってなきゃなんねぇの? もう飽きた」
 くてっとテーブルに突っ伏して、悟空が言った。
 もう三日も、この町から動けないでいた。
 この先にある川の橋が、先ごろまで続いていた大雨で流されてしまったというので。
 橋を架け替えるのには時間がかかるが、水自体は三日もすれば引く。そうすれば、船で渡れるようになるだろうと言われ、迂回するよりは待つことにしたのだ。
 そうすることにしたのは、ずっと野宿続きで宿屋に泊まるのが久しぶりだったこともある。この町を出れば、迂回するにせよ、まっすぐ西に向かうにせよ、またしばらくは野宿続きだ。屋根のあるところで、少し体を休めるのもいいかもしれないという結論に達した。
 ここはさほど大きな町でもないが、それなりに人が行き来するところで、一応、一通りのものは揃っている。
 が、悟空にとってのカンジンなもの――美味しい食べ物には、あまり恵まれているとはいえなかった。
 そういうわけで、悟空だけは初日から不満で、夜な夜な八戒に頼んでは宿屋の厨房で夜食を作ってもらう、というのがすっかり日課となっていた。
「あーあ。悟浄はいいよな、お楽しみがあって」
 ぶぅぶぅと文句を言いながらも、悟空は食べ物を口に運ぶ。
「俺もついていけばよかったかな」
「なんですって」
 悟空の言葉に八戒がピクリと反応した。空気がピキンと固まった音が聞こえた気がした。
「え……えぇっと」
 なんだか周囲の温度まで下がったような気がする。
 悟空はだらしなく伏せていたテーブルから、慌てて身を起こした。
「それ、もしかして悟浄から誘われたんですか? それとも、まさかあなたが自主的に……」
「いや。あの……。俺はあんまり興味がないからって……」
「断ったんですね?」
「……えぇっと」
 笑顔なのに怖い。
 悟空はちょっと身を引いた。
 こういう時の八戒はめちゃくちゃ怖い。
 その怖さが悟空に向けられることはまったくなく、対象は、だいたいは今のように悟浄なのだが――思わず心の中で手を合わせる――目の当たりにするとなんとなく腰が引けてくる。
「あれ? まだ起きてたの? お子ちゃまは早くネンネしなくちゃ」
 と、まるで計ったかのようなタイミングの良さ――というか、むしろタイミングの悪さ――で明るい声が響いた。
 厨房の戸口にニヤニヤと笑う悟浄が立っていた。
「悟浄」
 いつもならば、さっきみたいな売り言葉には、何のかんのと突っかかってくるはずの悟空が、そう言ったきり黙っている。
 悟浄は少し訝しげな顔をした。
「悟浄」
 だが、同じように、といってもトーンの違う声に呼ばれて、我知らず悟浄の背筋が伸びた。
「は、八戒さん?」
 にこにこと笑っている顔が向いている先は紛れもなく自分。
 悟浄は頭をフル回転させて、自分が何をしたのだろうと考える。
「お楽しみ、だったようですね」
「あー、えっと、それは……」
「お話があります。少し、よろしいですよね?」
 カタン、と椅子が音を立てる。
「あ、三蔵」
 戸口まで歩いていった八戒が、少し引き気味の悟浄の後ろにいる影に気づいて声をかけた。
「宿屋の主人が、明日の午後には出発できるかもしれないと言っていましたよ。とりあえず川まで行ってみますか?」
「三蔵?」
 八戒の言葉に、悟空がパタパタと戸口に走り出てきた。まるでご主人さまの帰りを待ちわびていた仔犬のように。
「おかえり」
「あぁ」
 三蔵は悟空を一瞥して短く答えると、八戒にと向き直った。
「とりあえず川まで行って、行けるようならそのまま出発する。その河童を締め上げるなら、明日に響かないよう適当なところで切り上げろよ」
 それだけ言い、三蔵はさっさっと部屋にと歩いていく。
「って、ちょっと待った。八戒、『それ』を咎めるなら、三蔵だって同罪だぞ? なんたって、店の外で偶然会ったんだし。だいたい、あいつが私服だってところからしてわかるだろ」
 悟浄が言ってる間にも、足を止めることなく遠ざかっていく三蔵の服装は、確かにいつもの『三蔵法師』の正装ではない。白いシャツにジーンズ。普通の人から見れば、ありきたりの格好だ。
「お話は『そのこと』ではありません」
 にっこりと笑って八戒が悟浄の腕をとった。それから少し振り返る。
「悟空。すみませんが、後片付けは……」
「うん。しとくよ。まだ食べてる途中だし」
「明日、出発だそうですから、それ食べたら早く寝てくださいね」
「わかった」
 悟空の答えを聞くと、八戒は有無も言わさず悟浄を部屋へと連行していく。
 後に残った悟空はテーブルへと引き返し、椅子に身を投げ出すように座り込んだ。
 その目に落ちる暗い翳。らしくない表情が――たぶん誰にも見せたことのない表情が浮かんでいる。
 ふっと短くため息が漏れた。
 同じ香、だった……。
 三蔵の傍に行ったときに漂ってきた香。
 昨日とも、一昨日とも、同じ香。
 気に入った、ということだろうか。
 この甘い香水をつける女性を。
「やだよ、三蔵……」
 組んだ手に顔を伏せて、悟空は呟いた。