伝える言葉(2)


 悟空が部屋に戻ると既に灯りは落ちていた。
 いつものごとく、宿は三蔵と同室。そろそろと足音を忍ばせて、二つ並んだベッドにと向かった。
 暗さに慣れた目に、悟空の使っているベッドに背を向けて寝ている三蔵の姿が映る。部屋に差し込む微かな月の光にも輝く金色の髪。
 見るたびに、大好きだと思う金色の髪。
 指に絡めたときの柔らかな絹のような感触が手に蘇ってきた。
 思わず手を伸ばし、自分の手が視界に入って悟空は慌ててその手を押し留めた。
 今は。
 今は、触れさせてはくれない。
 胸が痛み、涙ぐみそうになって、悟空は大きく呼吸をした。胸の痛みを散らそうとするかのように。
 二、三度、深呼吸をし、そして不意に、これほど近づいても先ほどの香はもうしていないことに気づいた。
 気づいて、ふっと体の力が抜ける。
 シャワーを浴びて、早々にあの香を落としてしまったのだろう。
 それは特に執着していないということ。
 なんとなく安心して、悟空は自分のベッドに潜り込んだ。
 寝つきはいい方だ。横になるとすぐに深い眠りが訪れた。
 どのくらい眠っていたのだろう。
 ガタン、と音が響き、突然、深い眠りは破られた。
「……んだよ、も、朝?」
 目を擦りつつ、悟空は起き上がった。
「――だから、どう落とし前をつける気だって言ってるんだよっ」
 聞いたこともない声が聞こえてきた。ただ事ではない気配に、寝ぼけ眼だったのが、一気に覚醒する。
 見ると、三蔵のベッドの脇に男性が仁王立ちになっていた。
 ベッドの横に置いてあった小さなサイドテーブルが床に転がっている。
「何の話だが」
 眉間に皺を寄せ、不機嫌そのものと言った顔の三蔵が言う。
「人のオンナを寝取っといて、開き直ろうってのか」
「寝取るも何も、そういうところで働かせているのだろうが」
「客なら文句は言わねぇよ。だが、あいつはそうじゃないと言うから――」
「ちょっとっ!」
 険悪な雰囲気ではあるが、さほど危険な感じは受けない。だいたい何の話をしているのだろう、と判断をつきかねて悟空が二人を見守っていたところ、廊下から甲高い声が聞こえてきた。
 ふと見ると、部屋の扉は開いており、覗き込むように人だかりができていた。
 こんな状態で、さっきまでよく寝ていられたな。
 場違いにも、悟空は他人事のように感心する。
 だが、そんなのんびりとした考えも、人を掻き分けるようにして姿を現した女性を見て一気に消え失せた。
 近づいてきた女性が纏っている香。
 それは、三蔵が持ち帰ってきたものと同じだった。
「あんた、何やってるのよ、こんなところで。この人には関係ないでしょ」
 女性は、男性と三蔵の間に割り込むように入りこんだ。
 とても綺麗な女性だった。
 三蔵と並んで見劣りしない美人というのは、そうそういるものではない。
 失礼な言い方かもしれないが、こんな田舎にはもったいないような美人だった。
「関係ないわけないだろう」
「あんたには関係ないわよ。あたしが誰と付き合おうとあたしの自由でしょう」
「……んだとっ!」
 廊下から叫び声があがった。
 見物をしていた人が散り散りに逃げていく。
 青ざめ、震える男の手には鋭いナイフが握られていた。
「ひっ!」
 女性が喉をひくつかせ、思わず、といった感じで、三蔵に擦り寄った。
 だが。
 パシン。
 と、音がして、その手は振り払われた。
「……なんで?」
 呆然としたような声が女性の口から漏れる。
「痴話喧嘩なら外でしろ。迷惑だ」
 凍りつくような冷たい視線と口調。
 本気で迷惑だと思っているのが如実に現れている。
「何でよ?! だって、あなた三日もあたしのところに通ってきたじゃないっ!」
「ここじゃ他にすることもなかったから行っただけで、相手も俺が選んだわけじゃない。変えなかったのはただ単に面倒だったからで、別に誰でも同じだ」
 言われている女性の顔から見る見る血の気が引いていく。
「っの野郎!」
 聞くに耐えなかったのだろう。
 突然、男が三蔵にナイフを突きつけてきた。
 だが、ただの一瞬。
「つっ!」
 ナイフは床に落とされ、それでも殴りかかってこようとした男の手を三蔵はなんなく止めた。
「馬鹿にしてっ!」
 不意に女性が動いた。
 予想外の速さで床に落ちたナイフを拾うと、三蔵を切りつける。
「三蔵っ!」
 悟空が、紙のように白い顔で三蔵と女性の間に入り込んだ。
 そんなに逼迫した場面でもなかった。
 これよりも、もっと危ない目に遭ったことは何度もある。
 悟空の身体能力からいけば、女性を止めることなど造作もないことのはずだった。
 なのに、悟空はまるで生命の危機を感じているような表情をしている。
 とはいえ、ところ構わずナイフを振り回す女性に少し手間取るが、難なくナイフを取り上げ、押さえつけた。
 悪口雑言を並べ立てようとする女性を、三蔵が一睨みで黙らせた。それから悟空が、有無を言わさずに強引に男と一緒に部屋から追い出した。
 パタンと扉を閉めて、ふっと息をつくと、悟空は部屋の中にと引き返した。
「三蔵、怪我は?」
「ねぇよ」
 それを聞いて、そのまま窓へと向かう。
「何をしている?」
「だって……」
 窓を開け、悟空はバタバタとその辺を扇ぎだした。
 部屋に残る甘い香を追い出すために。
「俺は寝る」
 三蔵は、少し眉を寄せて悟空の様子を見ていたが、すぐに布団にと潜りこんだ。
「うん。お休みなさい……」
 部屋の空気を入れ替えて、窓を閉めると、悟空はベッドに腰かけた。
 部屋に取り入れた夜気のせいではなく、体が震える。
 面倒だった。別に誰でも同じ。
 先ほどの三蔵の台詞が頭の中を巡る。
 知っていた。最初から、それは。
 だが、口に出して言われるのは――。
 嗚咽を抑えようとするかのように、悟空は手で顔を覆った。