頬に触れる柔らかな感触とともに、意識が浮上した。
 栗色の柔らかな髪が目のすぐ下にある。目を閉じて顔を埋めると、微かに花のような香がした。
 柔らかな体をさらに、腕の中に取り込むように抱き寄せて、また眠ろうとした時。
 突然。
 本当に突然、はっきりと目が覚めた。

序曲〜prelude (1)


「……」

 埋めていた髪から顔をあげて、三蔵は軽く眉をひそめた。
 どうして自分がここにいるのか、まるで思い出せなかった。
 ここに。
 ひとつ布団の中、他人と。
 それより、何よりも驚くべきことは、近くに――いまだ、触れ合うほど近くに他人がいるにも関わらず、不快に思う気持ちがまるで湧いてこないことだ。
 接触嫌悪症。
 そう形容されるくらい、他人に触られるのを厭うのに。 

 まじまじと、三蔵は腕の中の少年を見つめた。
 そう。少年だ。
 大人に成りきれていない、線の細さを残す少年だが、女性ではない。
 丸みを帯びたところなど、どこにもないはずなのに、どうして柔らかいと感じているのだろう。

「ん……」

 不意に少年が身じろぎをした。
 微かに顔がしかめられ、それから徐々に目蓋が上がっていく。
 そして、現れたのは――黄金。
 太陽の光を凝縮したような黄金色の光に、三蔵は思わず息をのんだ。

 綺麗。
 よく自身に向かってかけられる、その言葉。
 そんな言葉など、くだらないと軽蔑さえしていたのに、その言葉でしか言い表せないものがあるのだと、初めてわかったような気がした。

「あ、れ……? 起きてた、の?」

 起き抜けの、少し舌足らずな口調で少年はそう言い、ふわりと笑みを浮かべた。
 それに再び驚く。
 あまりに無防備な笑顔。それは、見も知らぬ他人に向けるような笑顔ではない。
 もうずっと前から知っていたのではないか、という錯覚を起こさせる。
 錯覚、のはずだ。
 三蔵の額の皺が深くなった。

「大丈夫?」

 それをどう誤解したのか、少年が心配そうな表情を浮かべた。

「お……まえ……」

 声を出そうとして、掠れたような、嗄れた声しか出ないことに気づき、三蔵はさらに眉を寄せた。

「たぶん喉を酷く圧迫されたからだと思うけど。ここ、痕が残っちゃってるし」

 すっと少年の手が伸びてきて、首筋を撫でていく。
 それから、少年は起きあがると、布団をめくり上げて、三蔵の足首を確かめるように触った。そこにはタオルが巻かれていた。

「あー、やっぱり全部溶けちゃってるね。今、代えるから」

 布団を抜け出す少年の後を追うように、三蔵は身を起こした。
 と、途端に全身に痛みが走る。

「急に動いちゃダメだよ」

 戻ってきた少年が、手を添える。それだけで、痛みは続いているものの、随分と楽になったような気がした。

「ちょっと冷たいけど、我慢してね」

 ふと見ると、少年の横には氷の入ったビニール袋があった。
 少年は、三蔵の足のタオルをはずすと、元は同じように氷が入っていたのだろう、今は水だけになってしまったビニール袋をどけて、新たなビニール袋を足首に押し当てた。

「……っ」
「捻挫は冷やした方がいいから。冷たいだろうけど、そのうち慣れるから我慢して」

 そう言いつつ、固定するかのように上から新しいタオルを巻いていく。
 冷たい、というよりは痛みが伝わって広がっていく。
 だが、他人に弱みを見せるのを何よりも嫌う三蔵は、それを表に出すつもりはもとよりなく、気を逸らすために辺りを見回した。
 たいして広くもない部屋。
 一間しかなく、キッチンまで見渡せる。一人暮らし用のアパートだと思われた。

「病院に行こうかと思ったんだけど、病院は嫌だって言うから、ウチに連れてきた。覚えてない? 昨日、俺がバイトしてるコンビニの裏で、あなた、何人かに絡まれたんだけど」

 訝しげな表情をしていたのだろう。少年が説明するように言い出した。
 それから、いきなり顔を近づけて、コツンと額を触れ合わせた。

「熱、下がったみたいだね」

 びっくりして口もきけないでいる三蔵に、少年はにっこりと笑いかけた。

「昨日、ちょっと熱、出したみたいで、寒いって言うから一緒に寝たんだけど。俺、女の子じゃなくて良かったね。あなた、綺麗だから、責任とってとか言われそう」

 その言葉に三蔵は目をむいた。
 と、少年がぷっと吹き出した。

「違うよ。何かあったわけじゃないよ」

 特に口に出したわけではないが、一体、自分が何をしたんだ、と思ったのが表情でわかったのだろう。少年はクスクスと、光が弾けるような笑い声をたてた。

「言い方、悪かったね。女の子だったら、何にもなくても、あなたを引き止めておくためにそんなことも言うかなって。だって、ホント、綺麗だもん」

 屈託のない賞詞。
 呆れにも似た感情が湧き起こる。
 どうして、この少年はこんなにも無防備なのだろう。まったくの他人にこんなにも明け広げの好意を見せるなんて。
 そして、それを鬱陶しいと思わない自分がいる。
 むしろどちらかというと、嬉しいと感じている――。
 ふと考えたことに、三蔵の思考は一瞬、止まった。
 嬉しい?

「朝ごはん、用意するから、ちょっと待ってね」

 幾分、混乱している頭に、そう言う声が聞こえてきた。少年がキッチンへと向かう姿が目に入る。
 少し気を落ち着かせるために、三蔵は少年の後姿から近くのテーブルにと目を転じた。特に意味があったわけではない。ただ、少年の姿を目に入れないようにしようと思っただけだ。
 これ以上あの少年を見ていると、思考が暴走するような気がして。

 テーブルの上は紙が散乱していた。
 何気なく取り上げると、五線紙だとわかった。やはり、何気なく音符を辿り、そして――。

「あ、ごめん。それ、片付けて?」

 どれだけの間、譜面を見ていたのだろう。
 少年が声をかけてきたとき、三蔵の手の中には既に何枚かの五線紙が握られていた。

「……これ」

 相変わらず嗄れた声しか出ない。

「あぁ。それ。譜面、読めるの? オリジナルは俺じゃないよ。友達が『ぜってぇ、オススメ』とか言って貸してくれたのに入ってたやつ」

 お皿を置いて、少年が五線紙を拾い集めていくと、下からCDが出てきた。
 青い空に白い雲のジャケット。《The Sky》と《ou topos》という文字が入っているだけ。後ろをひっくり返してみても、人物はどこにも写っていない。

「これ。これに入っていたやつをちょっとアレンジしてみたんだけど」

 五線紙を握ったまま離さない三蔵に、少年は目を向けた。

「気に入った?」

 小首を傾げて聞いてくるのに、思わず三蔵は頷いた。
 と、少年は笑みを浮かべた。
 あまりに嬉しそうに笑うので、自分が素直に反応を返したことに、驚く間もなかった。

「くれないか?」

 少年の笑顔を見ながら、単刀直入に三蔵は切り出した。
 声が出ない、という理由もあるが、もともと口数は多いほうではない。声が出ていたとしても、そういう言い方しかしなかっただろう。

「えぇっと」

 少年は戸惑ったような声をあげた。

「それ、オリジナルじゃないし、勝手にアレンジしたから発表はできないよ? それでもいいの?」

 三蔵はただ黙って頷く。
 と、再び、少年は笑みを浮かべた。

「それでもいいなら、いいよ。あげる。気に入ってくれたみたいだし」

 あっさりとそう言い、五線紙を確かめて、少年は三蔵にと渡した。
 と、そのとき。
 携帯の着信音がした。
 見回すと、枕元に置かれていた携帯が鳴っていた。三蔵の携帯だった。
 手を伸ばして取り、着歴を見て、しぶしぶと通話ボタンを押す。無視しても良いのだが、後々が面倒だと思った。そして、予想に違わず聞こえてきた小言めいた声に思わずため息を漏らした。

「なんでもねぇよ。だが、迎えに来い」

 嗄れ声に、電話の向うの相手の声は一段と大きくなる。三蔵は携帯を耳から離すと、少年の方に押し付けた。

「住所」

 おろおろとする少年に一言投げかける。
 相手からは見えないのにお辞儀などをしながら、たどたどしく住所を告げる少年を、三蔵はじっと見つめていた。