序曲〜prelude (2)


「あれ?」

 ポストの中に、チラシでもダイレクトメールでもなさそうなものを見つけて、悟空は思わず声をあげた。
 真っ白い封筒。
 表に住所と名前は記されているが、裏に差出人の名前はない。
 なんだろうと思って、封を切って逆さにしてみると、中から紙切れが一枚、出てきた。
 よく確かめてみると、それはライブのチケットだった。
 出演者は、《ou topos》
 あの人かも。
 咄嗟に悟空の脳裏に、綺麗な顔が浮かび上がった。

 一週間ほど前、悟空は、コンビニのバイトが終わって帰るときに、数人に絡まれている男性を助けた。
 助けた、というか、バイトが終わって、搬入と従業員が出入りする時ぐらいにしか使わない裏口の扉を開けたら、数人の男たちがいて、何事かと思う間もなく、散り散りに逃げていった。
 そして、残っていたのが、金色の髪に紫の瞳の超がつくほどの美形だった。

 救急車を呼ぼうとしたら、止められた。
 面倒は起こしたくないとかなんとか。
 まさか怪我をしているのに、放っておくわけにはいかず、家に連れ帰った。
 だが、家に連れ帰った理由はそれだけではない。
 だいたい見も知らぬ人間だ。
 普通なら、病院に行くのは嫌だと言われても強引に病院に連れて行ってあとは本人の好きにさせるか、関わりにならないよう放っておくか、そんなものだろう。
 連れ帰ろうと思ったのは、とても懐かしい感じがしたから。
 といっても、初対面のはずだった。あれだけの美形。どこかで会っていたら、必ず覚えている。
 それなのに、懐かしい感じがするなんて、とても不思議だった。

 とりあえず肩を貸しながらアパートまで歩いてきて、手当てをしているうちに、男性は寝入ってしまった。体力の限界だったのだろう。
 布団を敷いて寝かせると、呟き声がした。
 なんだろう、と思って耳を近づけると、突然、引き寄せられた。
 びっくりして、じたばたと手足を動かそうとしたところ、耳元で声が聞こえたような気がした。

 ――寒い。

 本当は声になっていなかったのかもしれない。
 だが、確かに声がしたと思った。
 目を閉じていても綺麗な顔が間近にあって、わけもなく心臓が暴れだして、どうしようかと思ったが、抱きこまれた腕の中はとても温かで。
 いつしかそのまま寝入ってしまった。

 男性は一晩いただけで、翌朝、早々に帰っていった。迎えに来た友人と一緒に。
 怪我をしていて、だから助けて、ただそれだけ。
 たいした言葉を交わしたわけでもないのに、男性が出て行くとき、悟空の胸は鋭く痛んだ。
 ずっとこのまま一緒にいてくれればいいのに、と思った。
 誰かが一緒にいてくれることなんて、もう久しくなかったから、人恋しい気持ちが呼び起こされていた。
 それもある。だが、それだけではないような気もした。
 理由を考えると、泣きたくなるような気持ちになるので、考えないようにした。
 そして、金色に輝く髪が扉の向こうに消えるときに、名前も聞いていないことに気付いた。
 呼び止めようとして、言葉を飲み込んだ。
 名前を聞いて、どうしようというのだろう。
 だって、もう会うこともない――。

 けれど、今、手の中に一枚のチケットがある。
 もしかしたら、また会えるかもしれない。
 悟空はチケットをそっと胸に抱きかかえた。


□ ■ □


 悟空がライブハウスに着いたときには、もうライブは始まっていた。
 その日に限って学校で引きとめられたのと、ライブハウスに行き着くまでに散々迷ったのと。
 少し息を切らして、チケットを渡すと、1ドリンクつきだからと言われてチケットを返された。扉を開けて中に入ると、照明を抑えた暗がりと、音の洪水。
 悟空は辺りを見回し、人ごみの中を進んでいった。ドリンクバーで注文を待つ人、後ろの方にだけある座席に座ってステージを眺めている人、ステージ近くで熱心に演奏を聴いている人たち。
 いつの間にか、演奏はひと段落し、ステージ上ではなにやら話をしているようだったが、悟空の耳には入っていなかった。
 ステージとは違う方を向いて、目立つはずの姿を探していた。
 微かな光にもあの金色の髪は輝くはずだから。
 だが、どんなに目を凝らしても、その姿はない。
 時間通りにこなかったので帰ってしまったのか。それとも、最初から来る気はなかったのか。
 悟空が、ふっとため息をついたとき。
 また新しい曲が始まった。
《The Sky》
 反射的に頭の中に曲名が浮かぶ。
 アルバムと同名の曲。何度も何度も繰り返して聞いた曲。悟空がアレンジを施した曲のオリジナルだった。
 低く響く歌声が聞こえてきて、ふと、最初に聞いたとき、この声が好きだと思ったことを思い出した。
 顔を上げてステージを振り仰ぐ。
 そして。
 そこに、求めていた姿を見出した。


□ ■ □


 アンコールの曲も終了し、次々と人が帰っていく。
 その波から少し離れたところで、悟空はぼーっとした顔で、ただ立ち尽くしていた。

 借りていたCDには、バンドのメンバー名は書いてあったが、写真は載っていなかった。
 だから、わからなかった。
 だけど、声。
 あのとき、あんな嗄れた声ではなく、普通の声を聞いていたら、絶対わかっていたはずだ。
 《ou topos》のボーカルの三蔵だと。

 最後のアンコール曲は、悟空がアレンジを施したものだった。
 ピアノソロのバラード。
 ステージにピアノはなかったので、あらかじめ録音されていたものだろう。
 それにあわせて、甘く囁くように歌う声に、女の子たちが黄色い悲鳴をあげていた。
 あの曲のとき、三蔵はずっとこちらを見つめていた。
 ただ一人に捧げるかのように――。
 思い出すだけで、頬に熱があがってくる。

「……なわけねぇじゃん。俺のバカ」

 悟空は、自分の頭をポカポカと殴り出した。

「そんなことしてると、ホントにバカになるぞ」

 と、その手を止められた。同時に聞こえてくる、低い声。

「さん……っ」

 驚きのあまり呼ぼうとした名前は途中で、口を手で塞がれて止められる。
 目を大きく見開いた表情が可笑しかったのか、三蔵は微かに笑うと、掴んだままだった手を引いて、周囲に気づかれる前に、会場から悟空を連れ出した。