【原作寺院設定】
紛らわしい
2006年8月9日
バタバタバタ。
静まり返った寺院に大きな足音が響く。
書庫で調べ物をしていた三蔵は、軽く眉をしかめた。
平安と静寂を旨とする寺院で、こんな騒がしい音をたてるものは一人しかいない。
バタン。
背後で、一瞬、部屋が揺れるほど乱暴に扉が開いた。
眉間の皺を深くし、一発ハリセンをかましてやろうと振り返ろうとしたとき。
ドスッ。
ゴン。
バサバサバサ。
様々な音が続いて起こった。
それは順番に、後ろから小猿が三蔵の腰の辺りにタックルしてきた音、その勢いで三蔵が額を書棚にぶつけた音、それからその振動で書棚から本が落ちてきた音。
バサリ、と三蔵の頭から本が落ちる。
「……てめぇ」
最高僧さまの背後に怒りのオーラが黒く湧き上がっていくのが、目に見えるようだった。
地の底から聞こえてくるのでは、というくらいに低い声は、しかし。
「わーん、口、舐められたっ!」
ぎゅっとしがみついて泣き喚く小猿の声で遮られた。
「何?!」
一瞬で三蔵の顔が険しくなった。それは先ほどまでの表情さえ可愛く見えるほどの恐ろしい形相。
「誰にだ?!」
三蔵は、悟空を腰から引き剥がして、自分の方へと向かせた。
「ふぇ……」
と、あまりにも怖い表情をしていたせいか、悟空が新たな涙を浮かべる。
「ごめ……ごめんなさい、さんぞ……、やだよ……置いてかないで……置いてっちゃやだ……」
三蔵には、そんな気はなかったが、どうやら悟空は自分が怒られていると思ったようだ。
泣きじゃくって、ますます三蔵にしがみついてきた。
「別に怒ってねぇよ。怒ってねぇから、誰にされたんだ?」
軽く深呼吸して気を沈め、今度は割に優しく問いかけてみるが、悟空は泣きじゃくったままだ。
「おい、悟空」
再度呼びかけてみるが、効果なし。
三蔵はため息をひとつついた。
このままでは埒が明かないと判断した三蔵は悟空を抱き上げると、物言いたげな僧たちの視線を完全に無視して、自室にと向かった。
寝台に腰かけ、悟空を膝の上に乗せて、あやすように背中を撫でてやる。
そうやっているうちに、ようやく悟空は泣き止んだ。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を拭ってやり、少し落ち着いたところで、軽く唇にキスを落とした。
「消毒だ」
そういうと、ぱぁっと、悟空が嬉しそうな顔をした。
と、悟空が三蔵の方に手を伸ばしてきた。
何だ? と思ううちに肩に手が置かれ、伸び上がってきた悟空に唇を舐められた。
「嬉しかったから、お返し」
にこにこと笑う悟空に、三蔵は軽くため息をついた。
「舐めるなんて、お前はドーブツか」
「みゅ?」
言われたことの意味がわからないのか、悟空は軽く小首をかしげて三蔵を見上げる。
あまりに可愛らしい様子に、三蔵はもう一度、ため息をついた。
無意識のうちに、しかも相手を選ばす、こういう仕草をするから、いつまでたっても悩みがつきないのだ。
「で、誰にさっきみたいなことをされたんだ?」
気を取り直して、一番の問題を尋ねてみる。と、悟空の眉間に皺が寄った。
「あんなことするなんて、思わなかった」
少し拗ねたような、そんな口調で言う。
「どうせ、食べ物にでもつられて、ついていったんだろ。いつも言ってるだろ、そういう輩には注意しろって」
「違うもん。そういう人達は、食べ物だけ貰って、ちゃんとさよならするもん。だけど、あいつは……」
悟空の顔が少し歪む。泣きそうだ。
「信じてたのに……せっかく、仲良くなったのに」
その言葉に三蔵の胸がざわついた。
この寺院のなかで、自分以外に悟空がこころを許す人間がいるとは。
「誰だ、そいつは……小坊主か? それとも……」
我知らず、三蔵の声が低くなる。
「違うよ。寺院の人じゃない」
「じゃあ、外の人間か? ここに参拝にくる……」
「ううん」
悟空の首が横に振られ、一体どこのどいつだ、見つけたら鉛玉をぶち込んでやる、などと物騒なことを考えていた三蔵は、いぶかしげな表情を浮かべた。
寺院の中の人間でも外の人間でもないとすると……?
そんな三蔵の疑問も知らず、悟空はふぅっと悩ましげなため息をつくと言った。
「一緒に遊んでくれる犬。この間、仲良くなったの」
……。
一瞬、三蔵の思考が止まる。
犬?
「……お前は」
心配していた反動で、思わずふるふると怒りが込み上げてくる。
「このバカ猿っ! お前は、犬も人も一緒なのかっ?!」
すかさず、三蔵は懐から取り出したハリセンを悟空の頭へとお見舞いした。
「いってぇっ! 何すんだよ、いきなりっ」
悟空が涙目で頭を抑える。
「紛らわしいことを言うお前が悪いんだろうが」
「だって、口、舐められたのは本当だしっ。それに、犬だって人間だって三蔵以外はイヤなのっ!」
不機嫌な最高僧さまと、むぅと頬を膨らませた小猿はしばし睨みあった。
だが。
「……俺以外はイヤなのか?」
微かに笑みを浮かべて三蔵が尋ねた。
「そう。三蔵以外はヤダ」
答える悟空の唇も、微かに綻んでいる。
「そうか」
「そう」
一瞬、笑みを交し合い。
そして、どちらからともなく顔が近づいていった。