39. 伝えたい事はただひとつ(1)


「うおっわっ!」
 突然、体が前のめりになって、悟空は慌てて前の座席に手をついて体を支えた。だが、そのまま体が横に振られて、結局、倒れてしまう。ぎゅう、と重力がかかって、やがてジープが止まった。
 バタン。
 ひっくり返った姿勢のまま、大きな音が響くのを聞いた。八戒がジープから降りていく気配。
「イテテ……」
 悟空は頭をさすった。
「それは、こっちの台詞。さっさと人の上からどけよ」
 体の下から声がした。どうやら悟浄を下敷きにしてしまったらしい。
「わりぃ」
 俺のせいじゃないけど、と思いつつ、とりあえず形だけは謝って悟空は起き上がった。きょろきょろと辺りを見回す。
「にしても、何があったんだ?」
 西へ向かう途中の森の中。特に変わったところは見えない。妖怪たちが襲ってきたとかそういうわけではなさそうだ。
 と、何か抱えた八戒がこちらに戻ってくるのが見えた。
 何か――子供?
「えぇ?! 八戒、轢いちゃったの?!」
 悟空は思わず立ち上がった。
「まさか」
 心外、といった表情を浮かべて八戒が言った。
「たぶん、びっくりしたからだと思いますけど」
 八戒は抱えていた子供を悟浄に渡した。少し青ざめて、目を閉じている。気を失っているようだった。
「悟空、救急箱をとってください。急ブレーキをかけたとき、石を跳ね飛ばしたみたいで、それに当たっちゃったみたいなんです」
 子供の腕から血が流れていた。
 悟空はわたわたと救急箱を探し出すと、八戒に差し出した。八戒は慣れた手つきで傷口を消毒し、薬をつけて包帯を巻いていく。
「この子……」
 悟空は子供の顔を覗きこんで呟いた。
 尖った耳と、頬に浮かんだ文様。妖怪の子供だった。
「ん……」
 八戒が包帯を巻き終わるのとほぼ同時くらいに、微かな呻き声とともに子供が目を開けた。一瞬、自分がどこにいるのかわからないという表情を浮かべたが、その目が八戒を、次いで悟浄を捕らえると、ぱっと身を翻して逃げようとした。
「わっ!」
 が、逃げようとした方には悟空がいた。体当たりをかまされた格好になって、悟空は勢い余って後部座席にと倒れこんだ。
 今日は、よく振り回されるよなぁ。
 戦闘時ではないので、呑気にそんなことを考えながら、上半身を少し浮かすと、子供と目が合った。子供の目が大きく見開かれた。
「……綺麗」
 思わず、といった囁き声が、子供の口から漏れた。
 悟空は子供の視界に三蔵の姿が入ったのだろうと思ったが、その視線がまっすぐ自分を見ているのに気付いて怪訝そうな表情を浮かべた。
 綺麗。
 そう言った気がするけど、そっちの方が聞き違いだろうか。
「綺麗? 小猿ちゃんが?」
 子供の背後から笑い声が聞こえてきた。爆笑といってもいい。悟浄だ。
 悟空は思わずむっとしたが、悟空が口を開くよりも早く、子供が後ろを振り返った。
「おかしくなんかありません」
 子供はきっぱりと言い切った。その迫力に押されたのか、悟浄の笑い声がやんだ。子供がもう一度、悟空の方にと向き直った。
「こんなに綺麗な目、見たことない。金色の――太陽みたい」
 今度は悟空が目を見開く番だった。
 目?
 この金色の目。不吉だと、散々言われてきた。
 綺麗だと言ってくれたのは――。
「いつまで足留めを食ってやがる。さっさとしねぇと日が暮れる」
 不機嫌そうな声が、前の座席から聞こえた。まったく関心がないとでも言っているように、後ろを振り向きもしない。
 太陽みたいっていうのは、この人の方が合うと思うけど。
 その煌く金色の髪を見ながら、悟空はそっと笑みを浮かべた。
 と、子供の手が微かに震えているのに気がついた。改めて子供を見ると、怯えたような目で三蔵を見ている姿が目に入った。
 三蔵、言い方、キツイから。
 大丈夫だよ、と声をかけようとしたが、八戒の声の方が早かった。
「まぁまぁ、三蔵。怪我をさせてしまったのは、こちらが悪いんですから。君、大丈夫?」
 ずっと悟空の上に乗り上げた形になっていた子供が、のろのろとどいて、八戒の方にと向きを変えた。
「大丈夫です」
 それから、自分の腕を見て。
「ありがとうございます」
 と付け加えた。子供は左右を見回して、悟空の方の扉から外に出ようとした。
「なぁ、お前ん家、どこ?」
 それに悟空が声をかけた。子供は、『何故?』といったような表情をした。
「八戒」
 悟空が八戒の方を向いた。
「そうですね。お詫びと言ってはなんですが、家まで送りますよ」
 八戒は、いつもの人当たりの良い笑顔を浮かべて言った。

 子供は『琥珀』と名乗った。
 家までの道のりで、ポツリポツリと話してくれたことによると、琥珀は父親と二人で暮らしていたが、異変の影響か、父親は家を飛び出して行ったきり帰ってこず、今は、森の外れの家に一人で暮らしているということだった。父親は植物の研究をしており、珍しい植物を採取しに行って何日も帰ってこないことがこれまでに何度もあったので、一人は慣れていると言っていた。
 今日、あんなところで車に轢かれそうなったのは、父親の研究の足しになれば、と珍しい植物の種を森に採りに行ったからだという。その帰りに低木の茂みから道にと飛び出した。人も滅多に通らない森の道を、ジープが走ってくるなんて思いも寄らなかったと琥珀は言って謝った。
「なぁ、三蔵」
 琥珀を家まで送り届け、『ちょっと待っていてください』と言われて停めた車の中で、悟空が口を開いた。
「却下」
「まだ何も言ってないけど」
「どうせ、ここに泊まろうとか言うんだろ」
「う……」
 図星されて、悟空が言葉につまる。だが、気を取り直して。
「駄目かな?」
「招かれてもいないのに、押しかけるわけにはいかないだろう」
「でも……」
 悟空は俯いた。
 一人では寂しいだろうから。
 くしゃりと髪の毛をかきまわされた。顔を上げると、三蔵がこちらを見ていた。
 その瞳に見つめられると、凄く安心する。どこにいても、三蔵さえいてくれるなら、そこが自分の居場所だと思う。
 だけど、琥珀は――。
「お待たせしました」
 琥珀の声がして、悟空はそちらを向いた。目の前に一輪の花が差し出された。
「月光花の蕾です。すみません。送っていただいたお礼と言っても、こんなものしか家にはないので」
「月光花? 希少植物じゃないですか」
 八戒が振り向いた。
「キショウ?」
 花を受け取った悟空が耳慣れない単語に難しい顔をした。
「凄く珍しいってことですよ」
「えぇ? いいの? そんなの、貰っても?」
「貰ってください。その花は、悟空さんによく合うと思います」
「俺に?」
「えぇ。その花、日没から夜明けまでの一夜限りの花ですので見逃さないでくださいね」
 悟空は手の中の花を見下ろした。
 自分に合う花。それはどういう花なんだろう。
「じゃあ、行きますか」
 のほほんと八戒が言った。
「ありがとうございました」
 琥珀が深々と頭をさげた。それに悟空が声をかけた。
「俺たち、この先の町に泊まるから」
 地図によると森を抜け、少し行ったところに町があった。今日はそこで一泊することになっていた。
「何かあったら、明日の朝まではいるから」
 異変から先、妖怪と人間の溝は深まるばかりだ。何かあったとしても、妖怪の子供が人間の町に行くことはないだろう。でも、言わずにはいられなかった。
「ありがとうございます」
 もう一度礼を言って、琥珀は微笑んだ。
 綺麗な笑顔だった。
 ジープが走り始め、やがてその笑顔は遠くなった。