39. 伝えたい事はただひとつ(2)
町に着き、宿を決め、少し早いが夕食をとった。悟空が日没に花を見たいと主張したからだ。
今日の宿は二人部屋が二つ。悟空と三蔵、悟浄と八戒に分かれることに決まった。
夕食後は、いつもの通り明日の朝まで各自自由となり、花は花でも別の花に興味のある悟浄は食べ終わると早々に繁華街へと出かけて行った。
「あれ、三蔵?」
店を出たところで、三蔵が宿とは違う方向にと歩き出した。てっきり自分と一緒に宿に帰って花を見ると思っていた悟空が呼び止めた。
「煙草を買いに行ってくる」
「まだ大丈夫でしょ? 花は?」
「次の町までどのくらいあると思っている。花は一晩中咲いているんだろう?」
三蔵はそう言うと、振り返りもせずにさっさっと歩み去り、人波へと消えていった。
一抹の寂しさを覚えながら、悟空は八戒とともに宿に向かった。
自分に合うという花。
三蔵にとってはどうでもいいことなんだ。そう思うとなんだか悲しくなってきた。
それで足取りが鈍くなったのか、宿についたのはもうほとんど日も沈む頃だった。
「やっべぇ」
慌てて部屋の扉を開け、窓辺に置いた花に向かった。八戒が後からそれほど慌てた様子もなく近づいてきた。
窓から沈む夕日が見えた。ゆっくりと夕日が建物の間に隠れて見えなくなり、空のオレンジが徐々に退いていく頃、花が淡い光を放ちはじめた。
最初は、気のせいかと思った。夕焼けで辺りが金色に染まって、まだ明るかったから。だが、その金色を写し取ったかのような淡い光が、周囲が暗くなっていくにつれ、存在を主張し始めた。
といっても、燦然と輝いているわけではない。
淡く霞のような朧の光。金色の柔らかで暖かそうな光。
「綺麗……」
空のほとんどが藍色に染まり、闇が落ちて暗くなった部屋の中で悟空が呟いた。
「月の光。名前の通りの花ですね」
悟空の呟きに、同じように花に見入っていた八戒は我に返ってそう言い、悟空に視線を移した。
「あなたに合う花、ですか。三蔵が一緒に見たくないのもわかります」
その言葉に悟空は、意味がわからないというように八戒を見た。
「他の人がこれほどあなたに合う花をみつけるなんて嫌でしょうから」
悟空はますます不思議そうな顔をする。その表情にクスリと八戒は笑った。
「あなたの目と同じ色ですね」
悟空の目が驚きに見開かれた。
――綺麗。
――こんなに綺麗な目、見たことない。
――悟空さんによく合うと思います。
矢継ぎ早に琥珀の台詞が悟空の頭の中を巡った。
「俺……」
琥珀の顔が目に浮かぶ。
「ちょっと、出かけてくる」
悟空はそう言うと部屋を飛び出した。
行ってどうなるわけでもないのはわかっていた。
だが。
悟空は、琥珀の家の前で立ち止まって大きく息をついた。ずっと町から走り通しで息があがっていた。呼吸が落ち着くまで少し待ち、それから顔を上げると家の明かりが全て消えているに気がついた。
子供の夜は早い。もう寝てしまったのかもしれない。
なんとなく寂しい気がした。
ただすれ違っただけの子供なのに。凄く気にかかる。だって、あの目は――。
悟空はふぅと大きなため息をついた。
とはいえ、叩き起こすわけには行くまい。
悟空はもう一度家を見上げると、もと来た道を引き返そうとした。
「悟空……さん……?」
その時、声がした。悟空は声のした方を振り返った。
庭木の陰から、月光花を手にした琥珀が出てきた。
「良かった。もう寝ちゃったのかと思った」
悟空は琥珀の方にと歩いていった。
「なんで……?」
「それの礼を言おうと思って。凄く綺麗だったから」
悟空は琥珀が手にしている花を指し、にっこりと笑った。
「ありがとう。それに、こんなに綺麗な花が俺に合うと言ってくれて嬉しかった」
突然、琥珀の目が潤み始めた。
そして。
「悟空さん」
いきなり琥珀は悟空の胸に飛び込んできた。悟空はその体をしっかりと受け止めた。
きっと、寂しくて、寂しくて。
でも、その寂しさを埋めてくれる人はどこにもいなくて。
たった一人で。
いつまで待てばいいのかわからなくて。
いつまで待っても誰かが来てくれるという保証はなくて。
そもそも本当に来てくれるのかもわからなくて。
だから、もうずっと一人なんだと諦めて。
それでも、やっぱり諦めきれずに――。
その目に浮かぶ色が自分と似ていた。
あの岩牢の中、来る日も来る日も空を見上げていた自分と。
だから気になった。とても気にかかった。
悟空は、琥珀の頭をゆっくり優しく撫でていた。
三蔵によくしてもらうように。そうしてもらうと、凄く安心できるから。琥珀もそうだといいと思った。
やがて、琥珀が顔を上げた。
「す、すみません」
涙を拭う。少し頬に赤みが差しているのは、泣いたことに対する羞恥心か。
「もう大丈夫です。いきなりすみませんでした」
そう謝る態度は年よりも大人びて見え、なんだか悟空は胸に痛みを覚えた。
「えっと、もし時間があるのでしたら、お茶でもいかがですか?」
「うん」
躊躇いがちに告げられた言葉に、悟空が大きく頷くと、琥珀の顔がぱっと輝いた。先にたって家の中にと入り、悟空を一室にと案内した。
「今、用意します」
そう言って、琥珀は部屋から出て行った。
悟空は、無意識のうちに部屋を横切り窓に向かった。景色を見ようと思ったわけではない。夜で、外に明かりがあるわけではないので、外の景色は見えなかった。
さっきの笑顔。
悟空が頷いたときに見せた輝くような笑顔。
そういう表情を見せてくれて嬉しかった。それと同時に――。
「さんぞ……」
悟空は呟いた。
自分が三蔵に向ける笑顔もあんななのだろうか。そうだといいのだけど。
なんだか無性に三蔵に会いたくなった。
と、見つめている窓に水滴がぶつかってきた。
雨?
そう思う間に、音を立てて窓にたくさんの水滴が打ちつけられる。土砂降りの雨。見上げると、さっきまで晴れて星が光っていた空は真っ暗で、いつの間にか厚い雲に侵食されていた。なんかイヤな感じの雲だと思っていると、空が光った。
直後に起こった雷鳴の方が大きかったはずだが、悟空の耳は微かな悲鳴を聞きつけた。
声のした方にと駆け出した。
「琥珀?」
名前を呼んで、キッチンに入っていく。琥珀の姿は見えない。
どうしたんだろう。
確かにここから声がしたはずなのだが。
ふと、目を下に転ずると、テーブルの下で丸まっている琥珀の姿が目に入った。
「琥珀、何やって……」
と、また雷の音が響いた。今度のは近い。
ぱっと身を起こして、琥珀がしがみついてきた。
「雷、怖いの?」
問いかけるが、ぎゅっとしがみつくままで、答えはない。
「大丈夫、大丈夫だよ」
悟空はそっと琥珀を抱きしめると、耳元で優しく囁いた。