01:初めての日


 声がかけれなかった――


 日差しが燦々と降り注いでいる。
 うだるような夏の暑さは峠を越し、吹く風に微かに涼気を感じるようになった。空気には夏の名残が残っているが、秋の気配の方が勝っている。
 外で遊ぶにはもってこいの気候だ。ただ、このところずっと雨が降っていないせいで、ちょっと埃っぽい。だが、そんなことはいつも元気良く遊んで、汚れて帰ってくる悟空にとっては、たいしたことではなかった。
 その日もいつものように寺院の庭で遊んでいた悟空は、奥まったところに植えられた木の陰から三蔵の白い法衣がのぞいているのに気が付いた。
 サボリだ。
 悟空の顔がほころんだ。
 公務が立て込んでくると、こんな風によく三蔵は姿をくらます。
 師の形見の行方の情報を得るため、そして『三蔵法師』という肩書がある以上、ある程度の仕事をこなすことは仕方ないと割り切ってはいるが、それでも限度というものがある。で、限度を超えると姿を消すわけだが、当然、寺院中が大騒ぎになる。『三蔵さまを連れ戻すこと』が最優先課題になって、捜索隊まで出る始末だ。
 といっても、実は寺院の運営に問題が出てくるわけはない。意外に責任感のある三蔵は『自分でなくてはいけない仕事』はちゃんとこなすからだ。三蔵が放り出す仕事は、『他の人でもできるが三蔵法師がやった方が箔がつく』といったようなものばかりであった。
 最初の頃は青くなっていた寺院関係者だったが、それがわかってきてからは、三蔵の捜索は形骸化した。というよりむしろ、数少ない娯楽の一種になっているかもしれない。宝探しのように。
 今回、三蔵は灯台もと暗しを狙って、寺院の庭に隠れたらしい。
 悟空は、三蔵の方に足を踏み出した。
 サボっているなら、構ってもらえるかもしれない。
 そんなことを考えて、満面の笑顔を浮かべ、ご主人様のもとに駆け寄る犬よろしく、足取りも軽くそちらに走っていく。だが、三蔵の姿が見えるところに周りこむと、足が止まった。
 三蔵の目の前に悟浄が立っているのが目に入った。
 三蔵が寄りかかる木に手をかけ、軽く上体を三蔵の方に傾けて、何か話しかけていた。笑っている。
 三蔵の方はたいして興味がなさそうな感じだったが、突然、ふっと笑みを浮かべた。
 それはいつもの皮肉めいた笑顔ではなく、優しげな柔らかな笑顔だった。この寺院の大半の僧達のように普段の不機嫌な顔しか知らない人間は、三蔵がこんな表情を浮かべることができるなんて思いも寄らないだろう。
 三蔵は他人とは一線を画し、馴れ合うことはしない。どんな相手でも、自分の方に踏み込ませない。
 だが、悟浄と八戒に対しては違っていた。
 それは三蔵の尊大な態度を気にしないという、二人の性格によるものが大きいのだろうが、いつの間にか悟浄と八戒は三蔵と自然に親しくなっていた。もちろん悟空とも。
 敵意とか蔑みとか、たぶん三蔵のそばにいるからであろう追従とか、そういう特殊な感情をずっと向けられてきた悟空にとって、自分を普通に扱ってくれる悟浄と八戒の存在は、最初、とても驚きだった。
 会えば楽しく、だから三蔵が二人を親しくそばに置くことは願ってもないことだった。
 だけど――。
 他人にあんな表情を見せる三蔵を悟空は初めて見た。
 それほど『特別』なんだろうか。
 そう思った瞬間、悟空の胸に鋭い痛みが走った。胸にナイフをつきたてられたような、今までに感じたことのない痛み。
 そして、その傷口から何かが溢れ出してくるような気がした。血ではない、何か黒いものが。
 何かはわからない。だが、良くないものであることは直感的にわかった。三蔵へと向かうこの黒いものは穢れている。綺麗なあの人を穢してしまう。
 光が消えていく。雲ひとつない青空が広がっているはずなのに、どんどん暗くなっていく。その中で、三蔵の姿だけが光輝いている。
 そばに行きたいのに。その光に触れたいのに。
 悟空は、初めて三蔵から逃げ出した。