02:右手と左手


 ふと、その存在を感じてあげた三蔵の目に悟空が映った。
 こちらを見ているのに、自分を見ていない。そんな悟空に三蔵の眉がひそめられた。
「ん?」
 悟浄が三蔵の視線に気付いて、振り返った。走り去っていく悟空の後ろ姿が見えた。と、三蔵が動く気配を感じ、悟浄は視線を戻した。
「小猿ちゃんのトコ?」
 悟浄の問いかけに三蔵は何も答えず、その横を通り過ぎた。
「まったく、仲の良い親子で」
 やれやれというように悟浄が肩をすくめた。
 その言葉に三蔵は顔を歪めた。すでに悟浄に背を向けていたので、浮かんだ表情は気づかれなかったはずだ。
 親子。
 僧達がどんなに邪推しようとも、結局そうとしか見えないことに安堵すべきか。
 この胸に浮かぶ想いがただの『親』としてのものであれば、何も悩むことはない。
 最初に手を差し伸べたときから、あの金色の瞳から目を離すことができないでいた。澄んだ瞳をした子供は、あまりにも簡単に心の奥に立ち入ってくる。普通ならば誰にも踏み込ませはしないのに。
 そして、封じ込められた記憶が不安を誘うのか、時々、その瞳を揺らしてすがりついてくる。
 置いていかないで。どこにも行かないで。
 そう言われる度に湧き上がる想いに、どれだけあの子供に捕らわれているのかをあらためて思い知らされ愕然とする。
 何にも執着しないと決めた。ただ己のためだけに生きると。それなのに――。
 三蔵は、桜の大木の下にいる悟空に近寄っていった。
「悟空」
 まるで庇護を請うかのように桜に身を寄せている悟空に、胸が波立つ。呼びかける声が少しきつくなる。
 すがりつく相手が違うだろう、と思い、そう思ってしまったことに自嘲する。
「さんぞ……」
 びっくりしたように見開かれる金晴瞳。そして呟き声が漏れた。
「なんで……?」
 こっちが聞きたいくらいだった。何故、悟空が自分の前から逃げたのか。そしてなぜそれを知りたいと思っているのか。
「サボリだ」
 だが、それを口にすることはできなかった。
「あぁ。皆、捜してるよ」
 クスッと笑って悟空が言う。その様子はいつも通りに見えるが、いつもとはどこか違っていた。
 三蔵は右手を悟空に差し出した。
「行くぞ」
「へ?」
 再び見開かれる金晴瞳。
「休みが取れたら、町に連れて行ってやると言っただろう」
 反射的に伸ばされた悟空の手が空中で止まった。
「……悟空?」
 いつもならば満面の笑みを浮かべ、手をつなぐどころか飛びついてくるはずだ。それが今日に限って、怯えたような表情を浮かべ、三蔵ではなく、三蔵の手を見ている。
 手と手の間の距離が、そのまま悟空の隔意を表しているようで、三蔵は言い知れぬ怒りのようなものを覚えた。
 逃がさない。
 意識してそう思ったわけではないが、三蔵の手がさらに伸び、悟空の手首を掴んだ。驚く悟空に構わず、自分の方に引き寄せる。
 間近に迫る金色の瞳。それを閉じ込めようと左手を伸ばそうとした時――。
「三蔵さま!」
 僧達が、口々に三蔵の名を呼んで駆け寄ってきた。
 ゆっくりと悟空から視線を外して、三蔵が僧達に向き直った。その表情は不機嫌を絵に描いたようだ。
「なんだ? 仕事ならてめぇらで適当にしとけ」
「違います。芳桜寺から火急のお使者が参り、その件で僧正さまがお呼びです」
 三蔵は舌打ちをした。僧正からの呼び出しであれば、無視をするわけにはいかない。
 三蔵は悟空をもう一度見ると、その手を離した。そして何も言わずに、悟空をその場に残したまま、僧達を引き連れて歩み去る。
 背後で崩れるように悟空が座り込むのが、見なくても三蔵にはわかった。