クジラの泳ぐプール


足音もなく傍らに寄ってきた悟空に、三蔵は薄く笑いかけ、また、目の前の水槽に視線を向けた。

夜の水族館。

誰も居ない沈んだ水族館。
ひっそりと息を潜めるような静けさの中、微かに聞こえる空気の音。
分厚いアクリル硝子の向こうの水音が聞こえそうな静寂。
水槽の青いライトに照らされる水族館こそ水底のような錯覚を悟空は覚えた。

深夜番組で見た水族館の映像に興味を引かれて、悟空と三蔵は深夜の水族館に忍び込んだ。
天窓の一つを開き、二人は深夜の水族館の中に降り立った。

最近出来た真新しいそこは、周囲三百六十度を水槽に囲まれた観賞路が呼び物だった。
建物全体が巨大な水槽と想定して作られているため、人が、観賞路が水の中に作られたトンネルの中を歩いているような錯覚を起こさせる作りとなっていた。

青い光に浮かぶ水槽と泳ぐ魚の姿。
ゆらゆらと揺れる海草の影と魚の影。
時折、生まれては消える泡の揺らめき。

その中に立つ三蔵の姿は夢幻のようで。
そのまま水の中に融けて消えてしまいそうに悟空には見えた。

ぞくりと背中を這う悪寒。

人としてどこか存在の儚い三蔵は、その美しい姿と共に悟空を不安にさせる。
姿だけでなく、その心も透明で綺麗な人。
無自覚に人を惹きつけ、惑わすそのことを三蔵は己の欠点だと疎んで、その存在をすぐに投げ出そうとする。
だから悟空は気が気ではなく、事あるごとに生きていて欲しいと願うのだけれど、どれ程三蔵の心に残っているのか。
今も魅入られたように水槽を見つめる姿に不安は掻き立てられて。

「………酷いよな…」

儚い存在に苛立つように呟く声は、三蔵には届かない。
魅入られた物語の中の人物のように、水の中に棲むモノ達に連れて行かれそうで。
その姿を離れて見ていた悟空は我知らず傍らに近づいていた。
僅かな悟空の気配に、三蔵は振り返って仄かな笑顔を向け、すぐに水槽へ視線を戻した。
青い照明に照らされた三蔵の横顔の儚さに、今此処にいる三蔵が幻のような錯覚を起こす。
だから消えてしまわないようにそっと、その白いシャツの腕に触れれば、三蔵の温もりがじんわりと冷たい手のひらに感じられた。

「…何だ?」

何時にない悟空の幼子のような行動に三蔵は不思議そうに紫暗を軽く見開いた。

「何でも…ない…」

ゆるゆると首を振る仕草に三蔵は柔らかく見開いた紫暗を眇めて、そっと悟空の頭に触れた。
その優しい感触に、悟空はゆっくりと顔を綻ばせた。

「どこにも行きゃしねえよ」

三蔵の言葉に弾かれたように悟空は顔を上げた。

「……不安がるな」

もう一度、今度は安心させるように悟空の頭を軽く叩き、三蔵はまた、水槽に視線を向けた。

「…………うん……」

三蔵の手の温もりと優しさに悟空は頷くことしか出来なかった。

「海の底にいるみてえだな…」

ゆっくりと水槽を見回して三蔵が呟く。

「そうだ…ね…」

その呟きに悟空の静かな頷きが返った。
それ以上何も言わず、二人はじっと青く澄んだ水槽を見つめていた。



michikoさま/AQUA