たいせつ(3)


 数日が過ぎた。
 傷の方は良くなってきていたが、相変わらず、三蔵の記憶は戻らなかった。
 ただ、この数日で、だんだんと子供のことがわかってきた。
 五行山の頂に封印されていた強大な力を秘めた妖怪。その異質さ故に、僧達からは敬遠されている。
 一緒に食事をしながら、今日は何をしたという報告をする子供を見ていると、どうしてこんな子供を僧達が忌み嫌っているか、三蔵にはよくわからなかった。
 ただの子供だ。
 しかも、世間一般の同じ年頃の子供よりも、もっと幼く見える。
 なのに、僧達はことあるごとに、この子供を寺院の外に出すようにと言ってくる。
 曰く、寺の風習に合わない。
 曰く、封印をといてやったのだから、もうそれで充分。
 曰く、そろそろ一人立ちさせてもいい頃。
 などなど。いい加減、うんざりしてくる。
 好きにすればいい、と思う。ここに留まるのも、どこかに行くのも、子供の自由だ。
 一度、子供にそう言ったら、ヘンな顔になった。
 というよりも、子供は時々、そういうヘンな顔でこちらを見る。ちょっと眉根を寄せ、唇を引き結んだ顔。困ったような、何か言いたげな、そんな顔。
 その表情を見るのは落ち着かなかった。なんだか、イライラする。言いたいことがあれば、はっきり言えばいいと思う。
 食事時以外に、子供が三蔵を訪ねてくることはなかった。裏で僧達に言い含められているのかもしれなかった。それもまた、イライラすることだった。自分の好きにすればいいのだ。煩いのだったら、三蔵が煩いと言うのだから。
 考えているうちに、三蔵は何だか嫌な気持ちになり、寝台から起き上がった。
 そろそろ、体を動かしてもいい時期だ。いい加減、体が固まってしまう。
 身支度をすませると、気分転換もかねて外に散歩に行くことにした。

 悟空は、寺院に植わっている木の上で、空を見ていた。綺麗な青空が広がっている。
 こんないい天気の日は普段ならば、寺院の裏山に出かけ、いろいろと一人遊びをするところだが、ここ数日、そんな気にはなれなかった。
 三蔵が血まみれで横たわっているのを見たときから。
 悟空は、ぶるっと身を震わせた。
 陽気は暖かな筈なのに、あの光景を思い浮かべると、途端に寒くなる。
 あの日。法事に出かけた三蔵が帰るのはいつ頃だろうと待っていたら、三蔵の声が聞こえたような気がした。そして凄く嫌な感じがして、いてもたってもいられなくなり、声のする方に駆け出した。
 崖の下に横たわる三蔵を見たとき、心臓が止まるかと思った。
 もう二度とその目に自分が映らなくなったら、どうしようと思った。
 悟空は、激しく首を振った。
 駄目だ。思い出したら。そんなこと、考えちゃ駄目だ。だって、三蔵は大丈夫だったんだから。ちゃんと、ここに……。
 ちゃんと、ここに、いるのだろうか。
 悟空は俯いた。
 三蔵はあまり変わらない、と思う。一緒にご飯を食べてくれるし、話も聞いてくれる。
 でも、やっぱりこちらを見る目が違うような気がする。
 自分のことを忘れてしまった三蔵。
 ちゃんと思い出して。
 そう言いたかった。でも、何かと懸命に戦っているような三蔵には、そんなことは言えなかった。
 たぶん、そんなことは三蔵にとって些細なことだろうから。
 でも、怖かった。
 それは、約束さえも忘れてしまったということだから。
 置いていかないと言った。そばにいてもいいと言った。
 だけど忘れてしまったとしたら。いつか。いつか、三蔵は自分を置いて行ってしまうかもしれない。どこか遠くへ。
 それが、怖かった。
 悟空はぎゅっと目をつぶった。そんな考えを見ないようにするかのように。
「小猿ちゃん、そんなところでナニしてるの?」
 と、場違いなほど明るい声が下からかけられた。思わず目を開けて、声のした方を見下ろす。鮮やかな赤い髪が飛び込んできた。
「悟浄! 八戒!」
 笑みを浮かべる二人の顔を見たとき、自分がたった一人ではないのだと悟空は思った。
 きっと二人ならば、この気持ちをわかってくれる。
 闇の中で一条の光をみつけたような気になった。
 居ても立ってもいられなくなり、悟空は、ほとんど身を躍らせるように木から飛び降りた。
「ゲッ! お前、そんなとこから飛び降りるな!」
 かなり高さのある木だった。
 いくら身軽でも怪我をするかもしれない。
 考えるより早く、悟浄は悟空の落下地点に向かった。落ちてくるのを受け止めて、そのまま勢いで地面を転がった。
「悟空っ! 怪我はないですか?!」
 ようやく止まったところに、八戒が駆け寄ってきた。
「普通、下敷きになっている俺を心配しないか?」
 悟浄は上半身を起こして、ぶつぶつと文句を言う。が、上に乗ったままいつまでもしがみついている悟空を見て、眉をひそめた。おでこを指で突いて顔をあげさせる。
「どしたの、小猿ちゃん。元気ないな」
「ごじょー」
 悟空は泣きそうな顔で悟浄を見上げた。

「じゃあ、今、三蔵サマの中身は子供なわけ?」
 悟空から一通り説明を引き出した後で、悟浄が言った。
「三蔵サマってば、人にメンドーを押しつけといて、そんな面白いことになっているとは」
 軽口をたたく悟浄を八戒が一瞥した。悟浄は肩をすくめた。
「すみません、悟空。僕達がもうちょっと早く来れれば良かったんですが。どっかの誰かがドジを踏みましてね」
 その言葉に悟浄があさっての方向を向いた。二人は、三蔵の依頼でここ数日、別の町に出かけていた。
「でも、大丈夫ですよ、きっと。三蔵があなたを忘れたままでいるわけはありません」
 にっこりと笑って八戒は言った。
 その言葉に悟空は目を丸くした。
「あれで、三蔵、意外と責任感は強いですからね。いつまでも自分の養い子にこんな顔をさせとかないでしょう」
 知り合ってからそうたいした時間は経っていないが、二人の絆の深さは充分すぎるほどわかっていた。その絆がそうそう簡単に切れるとは八戒には思えなかった。
 まだ心許ない顔をしている悟空の髪を、わしゃわしゃと悟浄が掻きまわした。
「何、らしくない顔をしてんだが。思い出さないなら、殴ってでも思い出させてやれ」
 その言葉で、悟空の顔に初めて笑顔が浮かんだ。
 無邪気な笑顔。悟空には、こういう笑顔こそ似合う。
 いつでも無邪気に笑っていて欲しい。たぶん、自分達にはもうできない表情だから。失くして欲しくなかった。
「悟空、ずっと寺院にいるのが辛いならば、夜の間だけでもウチに来ますか?」
 先程までの不安げな表情を思い出し、八戒は言った。 
 三蔵に記憶がないとすると、敵意だらけの寺院での生活は悟空にとって辛いだけだろう。三蔵さえしっかりと悟空を見ていれば、大丈夫なのだろうけど。
「そのウチって、俺ン家なんですけど、八戒さん」
 最近、家主がどっちだかわからなくなっているよな、とひとりごちる悟浄を無視して八戒は続ける。
「少し息抜きできる場所があった方がいいでしょう。悟浄もそう思うでしょう?」
 緑の目を向けられて、悟浄は肩をすくめた。
 八戒の考えは手に取るようにわかっていた。悟浄は、見かけや態度ほどは軽くない。もしかしたら、義理の母親から疎まれて育ってきた悟浄こそ、今の悟空の気持ちが一番良くわかるかもしれなかった。
「ま、小猿の一匹や二匹、増えたところでどーってことないけどな」
 そう言ってまた悟空の頭に手をやった。
「もー、やめてよ、悟浄。痛いって」
 悟空は悟浄の手を避けようと身を捩った。
「あ、さんぞー」
 そのとき、悟空の目にこちらに向かって歩いてくる三蔵が映った。悟浄と八戒が振り返った。