たいせつ(4)


 子供の声がした。
 いつの間にか、三蔵は声のした方に足を向けていた。
 子供が笑顔を浮かべたのが、遠目に見えた。
 無邪気な笑顔。
 ここ数日一緒にいて、自分以外の人間にあんな笑顔を見せたことがなかったのに……。
 反射的にそう思い、そう思ってしまったことに気付いて三蔵は顔をしかめた。
 あんな、相手を全面的に信頼しきっているような無邪気な笑顔を他人にみせるなんて。
 だが、別にたいしたことではない。
 意識的にそう考えてそれ以上の思考を封じ込めたが、なんだか胸のあたりに嫌な感じが広がるのを抑えられない。
 一緒にいるのは、赤い髪と黒い髪の男。
 そういえば僧達が言っていた。子供には可愛がってくれる連中がいると。だから、そいつらに預けてはどうかと。
「悟空、ずっと寺院にいるのが辛いならば、夜の間だけでもウチに来ますか?」
 黒髪の男の声が聞こえた。
「ま、小猿の一匹や二匹、増えたところでどーってことないけどな」
 赤い髪の男がそう言って、子供の髪をかき回す。
「もー、やめてよ、悟浄。痛いって」
 子供は身を捩ったが、本心から嫌がっているわけではなさそうだった。その目が三蔵の方を向いた。
「あ、さんぞー」
 嬉しそうな顔になった。だが、先程の笑顔には程遠い。
「……好きにすればいい」
 とことことやってくる子供に向かって、三蔵は言った。自分でも予期せぬ低い声になった。
 子供は小首をかしげる。言われたことの意味がわからないようだ。
「だから、どこへ行くのも好きにすればいいと言っているんだ」
 子供が少し怯んだような様子になった。
「オイオイ、三蔵サマ。尻尾振ってやってきたペットにイキナリそれはないんじゃない?」
 赤い髪の男が軽い調子で言った。三蔵は、無言でその男の方を見た。
「……なんか、あんま、変わってないのな」
 その視線の鋭さに、赤い髪の男はお手上げというように手を上げてみせた。
「ま、それはともかく、飼い主なんだからちゃんとペットの世話はするように」
「誰が飼い主だ」
「アンタが」
 と赤い髪の男は三蔵を指し、
「この小猿の」
 と子供をさした。
 三蔵は呆れて、ため息をついた。
「飼い主じゃない。だから、どこに行くのもこいつ自由だ」
「そういうことじゃないです、三蔵」
 黒髪の男が割り込んできた。にこにこと笑っているが、その実、目は笑っていない。
 当たりは柔らかいが、食えない奴だと一瞬でわかる。
「別に記憶がなくても、悟空が言ってほしい言葉はわかるでしょう?」
 言われて瞬時に浮かんだ言葉は――。
 ここにいろ。
 三蔵は、ふいっと視線をそらした。
 わかってはいた。確かに子供は最初から全身で呼んでいた。こちらを見て、と。そばにいて、と。
『声』が聞こえていた。
「俺はそいつじゃない。わかるわけがない」
 だが、子供が望む言葉を与えるわけにはいかなかった。
「だいたい、好きにすればいい、と言っている。行くも留まるも、そいつの自由だ」
 今はいい。こんなにもそばにいて欲しいと呼んでいるのだから。
 ここにいろ。
 その言葉は子供の望みでもあるだろう。
 だが、将来はどうだ?
 言ってしまえば、その言葉は子供を縛るものになる。子供の意思を摘み取って、ずっと自分のそばに繋ぎとめておくことになる。
 それだけ自分がこの子供にとって大きな存在なのだと、誰に言われなくてもわかっていた。
 だから、その言葉を言うわけにはいかなかった。
 子供の意思を残しておかなくては。いつか子供が離れたいと思ったときに、離れていけるように。ちゃんと自分の足でたてるように。
「三蔵と一緒にいる」
 子供はいきなりそう言うと、三蔵に飛びついてきた。三蔵の着物の胸元を握り締め、見上げるその顔には、悲壮、と言ってもよい表情が浮かんでいた。
「……好きにしろ」
 押し寄せてくる安堵感に戸惑いながら、三蔵は言った。
 子供がそばにいること。
 それは、自分の望みでもあるのだと自覚させられる。
「そばにいてもいいの?」
 子供は驚いたようにそう言い、またあのヘンな顔になった。
「だから、好きにしろと言っているだろう」
「さんぞー」
 子供の目から大粒の涙が零れ落ちた。それから、三蔵の胸に取りすがって泣きじゃくる。
 なんだ、甘えたかったのか。
 そんな子供の様子で、あのヘンな顔の意味がようやくわかった。
 たぶん、こんな風にとりすがって泣いたり、そばにいて欲しいと言ったりしたかったのだろう。
 だけど、できずにいた。
 三蔵は、無言で子供の頭を撫でた。
 本当にこの子供は無条件で自分を慕ってくる。何ももとめず、ただ一途に。
 何故だろう。
 失った記憶のなかに、その答えがあるのだろうか。
 この子供とどんな風に出会い、どんな風に過ごしてきたのか。
 初めて、三蔵は失くした記憶があればいいと思った。

 ゆっくりと頭を撫でてくれる手が気持ち良い。
 三蔵の胸元に顔をうずめながら、悟空は思った。
 こうしていると、何もかも戻ってくるようだった。
 そばにいてもいい、と言ってくれた。記憶があろうとなかろうと、三蔵は三蔵なのだと思った。
 と、頭を撫でていた手が離れた。
 もうちょっと撫でてほしかったな、と思っていると、カチッという撃鉄を起こす音が聞こえてきた。
 悟空は慌てて顔をあげた。
 と、殴りかかろうとした姿勢のまま、額に銃を突きつけられている悟浄の姿が飛び込んできた。
「そんなに死にたいのか」
 三蔵の低い声がした。
「まさか、殴ってでも思い出させようとしたの、悟浄?」
 悟空は先程の悟浄の言葉を思い出して言った。
「そんなのは殴ったあとの言い訳だろ。バ河童の考えそうなことだ」
 三蔵はひきつった笑みを浮かべている悟浄に冷ややかな視線を投げると、銃をひいた。そのままスタスタを寺院の方に戻っていく。
 三蔵だ。
 と、悟空は思った。
 悟空の顔に輝くような笑みが浮かんだ。
「三蔵、待って!」
 追いかけて、その腕に両手を絡ませた。
「ウザイ」
 と言われたが、振り払われはしなかった。
「いいじゃん、別に。ずっと淋しかったんだから」
 でも、もう大丈夫。
 三蔵が戻ってきたから。ずっとそばにいるから。

「……えっと、八戒さん。あれは、戻ったということでしょうかね」
「……どうやら、そうみたいですね」
 去っていく三蔵と悟空の後姿を、悟浄と八戒は呆然と見送っていた。
 なんだが、むなしい疲労感に襲われる。
「俺、まだ、殴ってないけど」
 悟浄がポツリと呟いた。
「あー、それはやっぱり、アレじゃないですか」
「……悟空?」
「正確にいえば、悟空の涙でしょうけどね」
 二人は同時に大きなため息をついた。
 甘い。
 なんのかんの言っても、一番甘やかしているのは……。
「これ、届けに行くの、明日にしましょうか」
 八戒は袋を持ち上げた。三蔵からの依頼品が中に入っていた。
「そうだな。なんだかアテられたみたいで、カンベンしてくれって感じだし」
「三蔵に買ってきたお土産のお酒、開けちゃいましょうかね」
「それ、いいね。トコトン飲みたい気分だし」
 二人は、くるりと寺院に背を向けた。口から出てくる言葉はぼやきだけだったが、その表情は明るかった。
 それぞれ反対方向に歩いていく二組の頭上には、抜けるような青い空が、何事もなかったかのように広がっていた。