süßer als Seufzer



 ざわめきは遠くなり、辺りから虫の音が聞こえてくるようになった。
 とりあえず追手は撒いたということだが、安心できる状況ではない。敷地の奥深くに迷いこみ、今いる場所すら定かではない。

 今夜は雲が多い。

 月は雲に隠れ、辺りは闇に包まれていた。
 完全なる闇ではないが、広い庭は木々の陰が深く、身を隠すにはあつらえ向きだ。だが、ここを抜け出そうとするには、先が見通せず分が悪い。

「……っつ!」

 大きな木に凭れかからせるようにして、肩を貸していた悟浄を座らせた。
 傷の手当てをしなくては。
 微かな星明りの下でざっと確かめる。
 かなり酷いことは薄明かりでもわかった。
 肩口をきつく押さえるとくぐもったうめき声が漏れたが、構わずありあわせのもので止血をする。

「……置いていけ」

 二、三度深く呼吸をした後で、それでも荒い息をつきながら、囁くように悟浄が言った。

「くだらねぇこと言ってねぇで、行くぞ」

 できる限りの手当てをしたところで、腕を掴んで立ちあがらせようとしたが、手を振り払われた。

「お前一人ならどうにかなるだろう。足手まといは置いていけ」
「置いていけるわけねぇだろうが」
「安心しろ。お前のことは口が裂けても言わないさ」
「んなこと、心配しているわけじゃねぇ」
「じゃあ、何だ? ここでお前が捕まったら俺たちの希望は潰えるんだぞ」
「今更言われるまでもねぇよ」
「だったら――」

 言い募るのを無視して腕を掴み、腕を肩に担いで強引に立たせた。
 だが、この後に及んでまでも悟浄が言葉を継ぐ。

「置いていけ。一人のために皆を犠牲にするつもりか。わかってるだろ? 上に立つものは時には切り捨てる覚悟がなければ務まらないぞ」
「切り捨てる時は俺が決める。それは今じゃねぇ。一人を助けることもできない奴が、どうやって大勢を助けることができる?」

 悟浄に肩を貸して歩き出す。
 まだ諦めるわけにはいかない。まだ。

 不意に明るい月の光が辺りを照らし出した。雲が切れたのだろう。
 そして、ふわりと目の前を薄紅色の花びらが舞い落ちていった。
 桜だ。
 先ほどまでまったく気がつかなかったが、すぐ近くに桜の木があった。
 月明かりに照らされ、淡く白く輝いているようだ。
 まるでこの世のものではないような美しさに今がどんな時かも忘れ、しばらく魅せられたかのように桜を見つめていた。
 と、突然、木の陰から少年が姿を現した。
 
 あたかも、桜の花びらが集まって人の形をとったかのように。

 そんな印象が浮かぶほど、あまりに唐突で、あまりに神秘的な感じがした。
 ふと、少年が顔をあげ、こちらを見た。

 その瞳は月の光を映して輝く――金色。

 知らず知らずのうちに、はっと息を止めた。
 桜の花も霞むほど。
 このうえなく美しいその金晴眼。
 それは――。

 それは、今夜ここに忍び込んだ理由。
 手にかけるべき標的。

 一瞬にして目の前の存在へと神経を集中させたが、微かに遠くから声が聞こえてきた。
 こちらに向かってくるようだ。
 ふっと緊張を解いた。
 今は駄目だ。
 今は逃げるのが先決だ。

 同じように声に気付いたのだろう。
 少年は声のする方を見、それから視線をこちらに移して手招きをした。
 ついてこいとでも言うように。
 事実、桜の木を回って歩き出す。
 一瞬迷い、だが意を決してその後に続いた。
 悟浄は何も言わない。
 というよりも、既に意識はなく、気力だけで歩いているのだろう。
 なるべく早くきちんとした医者にみせなくてはならない。

 桜の木の裏側に、少し離れて、四方が吹き抜けになっている四阿があった。
 建物の真ん中に腰の高さほどの台がある。
 近づいていった少年が何やら操作をすると、台がスッと音もなくスライドするように動き、下へと続く階段が現れた。

「外へ通じてるよ」

 まだ大人に成りきれていない、少し高めの声。
 それが何でもないことのように告げる。浮かんでいる表情にも、特に何かを企んでいる様子はない。

「どういうつもりだ?」

 訊くときょとんとした表情を浮かべた。

「外に出たいのでしょう?」

 確かにそうだ。
 今は迷っている場合ではない。
 そちらに向かって一歩踏み出した。

「ちょっと待って」

 と、少年に手をとられた。
 何事が呟き、そして。
 柔らかい感触が手の甲に伝わる。
 少年が唇を押し当てていた。

 長い睫毛。
 整った小さな顔。

 思わず抱き寄せようとし、それに気づいて驚く。
 何をしようというのだろう。
 これは、排除すべき存在であって、手に入れようとするものではない。

「迷うことも、危険な目に会うこともなく外に出るためのおまじない」

 驚きを別の意味にとり、少年は唇を離すとそう言った。それから頭をあげる。

「近づいてきてる」

 その言葉に促されるように、下へと続く階段に一歩踏み出した。
 最後に振り返ると、ふわりと笑みを浮かべる少年の顔が目に入った。
 何故かそれはひどく幸せそうに見え、脳裏にと焼き付いた。