Distance


今日はバレンタインデー。

ちょうどバイトが休みってこともあって、教会に隣接する付属の幼稚園にバレンタインデーのチョコ作りを手伝いにきていた。
チョコ作り、といっても幼稚園児のすることだ。
型抜きクッキーを作って、焼きあがったら湯煎で溶かしたチョコをつけて冷ます。
そんなものだ。

といっても、園児が生地からクッキーを作れるわけはなく、それにチョコの湯煎だって子供たちだけでは危ない。
だから、手伝いが必要というわけだった。

午前中は普通に遊ばせて、その間に生地の用意をして、午後から皆でチョコクッキーを作り始めた。
型を抜いたり、クッキーにチョコをつけたりが面白かったらしく、結構盛り上がって、結構楽しんでくれたみたい。
出来上がったクッキーを包んで渡してくれた八戒がいつもよりも優しく笑ってお礼を言ってくれた。

「あの方と一緒に食べてくださいね」

それからそう言って、一段と優しい笑みを見せた。
笑みを返しながらも、胸の奥が微かにうずいた。

気づいてしまったことがある。
俺と三蔵は、今日、この日に贈り物をしあうような仲ではないということ。
それどころか――。

昨日、不意に目を惹きつけられて薔薇を買った。
淡く緑がかった、白い薔薇。
三蔵に似合うと思った。ちょうどバレンタイン直前だったし、喜んでくれると思いこんでいた。

だけど。
三蔵は、少し困ったかのような顔をした。
それは吸血鬼が薔薇に触れると枯らしてしまうから、と教えてくれたけど。
でも。

気づいてしまった。
というか、最初からわかっていたはずだ。

三蔵が必要なのは、俺ではなく、俺の血だ。
それは三蔵が生きるために必要なもの。人にとっての食事と同じ意味。

――食うものと、食われるもの。

本当に食べられるわけじゃないから、それほどのまでの差があるわけじゃないかもしれないけれど、でも、たぶん三蔵にとって俺の存在は、よくてペットみたいなものだろう。
決して同等の目線で見る存在じゃない。

最初は、正直、迷惑だった。
いきなり押しかけてきて、居座るし。
だいたい最初の最初は、暴力的にわけのわからないまま、なにもかも奪い取られたような気がした。

でもいつの間にか、そこにいるのが当たり前に思うようになった。
触れてくるその手を、心地よいと感じるようになっていた。
だけどそれは飼い主がペットを可愛がって撫でるようなもの、なのだ。
それは、なんだか――。
胸が痛い。

ふっ、とひとつ息を吐き出す。気持ちを立て直すため。
この胸のうちを表情に出すわけにはいかない。表に出したところで三蔵は困るだけだろう。

大丈夫。
まだ、大丈夫。
とりかえしのつかないことにはなっていない。
こっちだってペットみたいなもの、と思えばいいのだ。
だって本当にそんな感じだし。

よし。
と、自分を納得させて、教会へと向かう。
そこに三蔵が待っていたから。

一緒にくるって言ったのに、幼稚園は騒がしいから嫌だとかわがままを言って、教会で待っていることになった。
三蔵は吸血鬼のくせに、ここの教会はお気に入りらしかった。
俺がいない時も、しょっちゅうここに来てる。
よく八戒と、薔薇の香がする不思議なお茶を飲んでるし。
なんか落ち着くらしい。平日の昼間は人があまりいなくて静かだからかもしれない。
その静寂のなかに、突然。

「三蔵はん、これ、もろうておくれやす」

声が響いた。
思わず入口のところで足を止める。
教会の椅子に座る三蔵の横に、誰かが立っていた。
ステンドグラスから差し込む光にキラキラと輝く金色――いや、もっと淡くて銀色に近い色の髪に、澄みきった空のような青い瞳。整った顔立ちで、まるで西洋人形のようだ、と思った。
といっても、その人は男の人だったから、その例えはおかしいかもしれないけど。
でも、ほっそりと華奢な感じで、やっぱりお人形さんみたいだと思った。

「なんのつもりだ」

剣呑な視線を投げる三蔵も、いまさら言うまでもなく凄く綺麗。
だから、なんか二人合わせて見ていると綺麗さが倍増されて、まるで完璧な一対を見ているように思えた。

それは天上画のようで、凄く綺麗だと思う……のに。
確かにそう思っているのに。
叫び出したいような気持ちになった。

「今日はこの国では好きな相手にチョコレートを贈る日なんやて。郷に入れば郷に従え、といいますやろ?」

綺麗にラッピングされた箱を三蔵に差し出したままで、その人が言う。
三蔵は、興味なさげにふいっと視線を外した。

「お前に用はない。帰れ」
「つれないお人やな、相変わらず」

クスクスとその人が笑う。
そして、もとからどうでも良かったもののように、ラッピングされた箱を放り投げると三蔵の方にと身を屈めた。

「止せ」

三蔵が身体をずらして遠ざかる。

「そないなこと言うても、もう限界ですやろ?」
「別に必要ない」
「そうですやろか。ここ二、三日見せてもろうてましたけど、三蔵はん、食事、してはらしませんやろ? こないに渇いてはるのに。何をそんなに我慢してはりますの? 触れるだけではたいして足しにならしまへんやろ? いざという時に力が出えへんかったらどないしはりますの」

言いつつ、細い優美な指を自分の首に滑らせて、首まである上着の留め金を外していく。
はっとするほど白い喉元が露になる。
それを見て、三蔵の眉間に皺が寄った。
ぐっと口元を引き締めて、座ったままでさらに後退する。

「なにを遠慮してはりますの? あの坊よりもよほどええ思いさせてあげられますえ? それはよう知ってはりますやろに」

柔らかくその人が笑う。慈愛に満ちた、聖母のような笑み。
三蔵の眉間の皺はますます深くなり。
そして。

「三蔵っ!」

思わず叫んでいた。
足音を響かせ、二人のところに近づいていく。
だって限界だった。
このままだと、三蔵、あの人に触れてしまう。
それは嫌だ。凄く嫌だ。なんだかよくわからないけど、本当に嫌だった。
が。

「来るな」

鋭い制止が、三蔵の口から放たれた。思わず足を止める。
と、苦しそうな表情が目に入った。
取り繕うこともできないのだろう。こんな表情を見せるのは確実に嫌がりそうなのに。

「ったく、馬鹿なんだから」

思わず呟いてしまう。
なんだって、こんなになるまで我慢してたんだろう。

「俺は最低限にしろとは言ったけど、血を吸うななんて言ってないだろう」

三蔵の制止の声に一旦は立ち止まったけど、構わずに再び進んでいく。
銀髪の、お人形さんみたいな青年が立っているのとは反対側の通路から三蔵に近づく。

「ご……くう」

紫の瞳がいつもよりも濃いような気がする。
深い、深い色。
吸い込まれそうに綺麗だ。

「必要なんだろ? いいよ」

囁くように言うと、少しだけ目が見開かれ、それからためらいもなく三蔵の手が伸びてきた。
なんとなく笑みが浮かぶ。
俺に対しては我慢をしないんだって思って。

やがてチクリとした痛みが首筋に走る。
そっと、目の前にある金色の髪に触れた。
俺以外の人には触れないで。
祈るように思いながら。

「ん……」

しばらくして、三蔵が離れると同時くらいに、抑えきれない声が漏れた。
心臓が大きく跳ねあがって、熱いものが体の中を駆け抜けていく。
最初の時よりも、こうなるのが早いような気がする。

「ふ……ぅっ」

立っていられなくなって三蔵の方に崩れ落ちるのを、三蔵が支えてくれた。

「や……、ここ……じゃ、やだ」

必死に声を絞り出して訴える。
体の中に渦巻く熱に、意識を持っていかれそうになる。

「別にうちはかましまへんけど?」

と、冷たい笑いを含んだ声が耳を打った。

「というか、三蔵はん、その子の体が気に入らんのなら、外にガトを待たせてありますから下げ渡したらどないです? あんさんは、うちがお相手してさしあげますから」

その言葉に、体に渦巻く熱はそのままに、突然、胸の奥が冷たくなった。
だから。
だから三蔵は、このところ血を吸わなかった、の――?

昨日、薔薇の花を渡したときからずっと消えずに残っている胸の奥の氷塊。
それが少し大きくなる。
すると、ふわりと体が持ち上がった。

「やっ」

思わず三蔵にぎゅっとしがみつく。
嫌だ。嫌。絶対に嫌だ、三蔵以外は――。
三蔵が嫌だと言っても、嫌だ。
これは絶対に譲れない。

「お前……」

少し戸惑うような声が上から降ってくる。
怖くなって、ますますぎゅっとしがみついた。

「誤解、してるのか? 渡すわけねぇだろうが」

頭に三蔵の唇が触れたのがわかった。
その優しい仕草に思わず見上げると、柔らかな色を浮かべた紫の目と目が合った。
ゆっくりと唇が近づいてきて、零れる涙を吸い取られる。

「……ぅ……」

それだけでも体が震える。

「いい子だ。もう少し我慢しろ。すぐに連れ帰ってやる」
「……さんぞ」

もう一度、ぎゅっと抱きつくと、三蔵が歩きだした。
歩く振動が伝わってくる。そんな些細な振動まで体に響いて、正直ひどく辛い。

「ジジィどもに伝えろ。もうとっくに縁は切れてるんだ。俺は戻る気はないし、干渉はしてくるな、と」

三蔵の声が聞こえてきた。

「それから、ヘイゼル。お前はもう二度と俺の前に現れるな」
「三……蔵はん? なにを言うてはりますの? あんさんには、うちが必要……」
「お前を必要だと思ったことは一度もねぇよ」

冷たく言い放ち、三蔵は歩みを止めることなく進んでいく。
そっと顔をあげると、呆然としたような青年の顔が目に入った。だけど、次の瞬間、教会から出てしまったので、それもすぐに視界から消えた。
出たところは、教会の裏庭。というか、菜園。手入れをするとき以外は、誰もいないようなところだけど。

「三……蔵……?」
「そんな不安そうな目をしなくても、ここじゃ、やんねぇよ」

クスリと三蔵が笑う。
頬に熱が上がってくるのがわかった。
それを見て、再び三蔵は笑うと、ふぅっと大きく深呼吸をした。

不思議な言葉が響く。
日本語じゃないのは確かだけど、どこの国の言葉かわからない。
でも響きがとても綺麗。
なんだか韻を踏んでいるような感じで、呪文みたいだ。
そんな風に思ったとき。
鳥が羽ばたく音が聞こえた。
頭上を見ると、無数の鳥がこちらを目がけ――。

「三蔵っ」

少し慌てる。
鳥に襲われるような感じがして、怖くなる。

「大丈夫だ。静かにしてろ」

軽く額にキスが降ってくる。
そして。
鳥たちは、ふっと消えた。
消えた――としかいいようがない。
三蔵に触れるか触れないかのところで、いきなり次々と姿を消していった。

「な……に……?」

と思ったときには、三蔵の背に大きな真っ白い翼。
――天使?
驚きで声も出ない。
だって、綺麗。
凄い綺麗。
こんな綺麗なのって、見たことない。
と、ふわりと体が宙に浮いた。

「三蔵」

飛んでる。
空を飛んでる。
二月の冷たい風が頬を打つ。
だから、これが夢幻でないことがわかる。
それでも信じられない思いでいたところ、今度はふわりと地上に舞い降りた。
地上。
アパートの前。
と、同時に三蔵の背の翼は、音を立てて飛び去っていく鳥にと姿を変える。

「三蔵、今の……」

確かにあったことなのに、あまりに短かく、信じられない出来事だったので、考えるそばから現実感が逃げていくような気がする。

「あとでな」

三蔵はそう言うと、部屋の扉をあけて中に入る。
入口で下ろされ、そして。

「ん……」

しっとりと唇を塞がれる。
ついばむような軽いキスではすぐに足りなくなって、強請るようにぎゅっと三蔵の腕を握る。すると低い微かな笑い声とともに、唇が深く重なってきた。
三蔵で満たされるような感じ。

「三蔵……」

何度も名前を呼ぶ。
それしか知らないように。

「そんなに呼ぶな」

唇を離して、三蔵が呟く。

「ちゃんとシてやるから」

そう言って笑う三蔵の顔には、どこか肉食獣めいた表情が浮かんでいる。
――食うものと食われるもの。

「うん……」

腕を回して抱きつきながら、零れ落ちる涙を止められない。
こんなに近くにいるのに、凄く遠い感じがして。
それでも。
少しでも距離を縮めるように、背中に回した手に力を入れた。