Turning Point (2)


教会の重い扉を開けて中に滑り込んだ。
正直、神さまが守ってくれるとか、そんなことは考えていなかった。
だって、どういう経緯かは知らないが、あの人は代行とはいえ神父なのだから。

ここに逃げ込んだのは、ただそれ以上、遠くには行けなかったから。
体のなかを暴れまわる熱を、制御できなかった。
どこか隠れるところを、と探す。
とりあえず目についた講壇の下にと身を隠すが。

「隠れても無駄ですよ」

扉の軋む音とともに声がした。
ゆっくりと、確実に足音が近づいてくる。

「血を吸うことで、獲物との間には特別な絆ができるのです。その熱を鎮めるまでは,あなたがどこに行こうとわたしにはわかります」

カタン、という音がした。

「ほら」

そして、講壇のなかを覗きこまれた。
闇のなかに、優しげな笑みが浮かぶ。
それはともすると誤解しそうなくらいに、慈しみにあふれている。

「なにをそんなに我慢するのです? 人は快楽に弱い。ここで快楽に身を委ねたところで、だれがあなたを責めるというのです?」

細い、綺麗な手が差し出される。
どこか意識の一部で、その手を取ってしまえばいい、という囁き声が聞こえる。
だが、それに耳を貸すことははできない。

「さあ」

あくまでも優しく神父は微笑んで、手を差し伸べる。
だがきっと、その実、俺が自分から堕ちてくるのを待っている。
苦しくて、胸元を掴んだ。

と、冷たいものが指先に触れた。
いつもはしていない、これ。
今日に限ってしていたのは――ただ、心細かったから。

だれも。
たとえだれもいなくなってしまっても、見守ってくれている人はきっといる。
そう思えるものだったから。

震える手で、掴んだものを強く引く。
そう簡単に壊れるものではないはずだけど、なぜかこのときは、プツンという音とともに、シャランと切れた鎖が手に落ちてきた。
これを失くしてしまうのは、とても辛い。

だけど――。

手に強く握りしめたものを、思いっきり神父に投げつけた。

「……っ」

そして、怯んだすきに、講壇の下から這い出して、駆け出した。

「……こんなもの、役に立たないのは知っているでしょうに」

だけど怯んだのは一瞬だったようで、すぐに背中に静かな声がかかる。
それと、カツン、と床になにかが落ちる音。
なにか――身につけていた十字架クロス

それが役に立たないことは知っている。三蔵もそうだったから。
だけど、少しでも気をそらせられれば良かった。
逃げる時間を得るために。

やはり、教会のなかはダメだ。
狭すぎる。

外へ。

でも――。
再度、扉を開けて外に出ながらも、どこへ向かうべきか迷う。
この熱を抱えたままでは、思うように動けない。
そのうえ、あの神父はどこに行ってもわかるといっていた。

「ぅ……っ」

心臓が暴れる。
立っていられないほどの――熱。
目についた、桜の大木にすがりついた。

――さ、ん……ぞ。

無意識のうちにその名を呼ぶ。
呼んでも無駄なことはわかっているというのに。
いまはここにいない人。
そして。

繋がりは、もう切れてしまった―――――。

「もうおしまいですか?」

楽しげな声が後ろから響いた。
獲物を追い詰めた肉食獣のような気配。
震えながらも、振り向き睨みつけた。

「まだ、そんな目ができるんですね」

感心したような声。

「たしかに、あの方が選ぶだけのことはあるかもしれませんね。でも、触れられてもなおそんな目ができるんでしょうかね」

クスリという笑い声。
もう完全に己の有利を確信しているような余裕のある態度で、手が伸びてくる。

イヤ、だ――。

心は悲鳴をあげているのに、熱の籠る体は全然動いてくれない。
どんどんと近づいてくる手。
あの手に触れられるくらいなら。
舌を噛み切ってしまった方が良いかもしれない――。

そう思って、触れる直前、どうにかグッっと力を入れようとして。
そして。

「ぎゃあああっ」

突然、目の前が白くなるほどの光が炸裂した。
それと、悲鳴。

一瞬の出来事に、なにが起きたのかよくわからない。
だけど、視力が戻ってきたとき。
目の前に、片手を抱える神父の姿があった。
掌が赤く爛れている。

「……おのれ、守護、とは」

そして気付く。
ふわん、と辺りを取り巻く、優しい空気。
これは。
この空気は、知ってる――。

「八戒……? いや、違うな。これは……?」

神父が訝しげにつぶやく。
そう。
これは八戒じゃない。
八戒の周囲を取り巻いている優しい雰囲気ととても似ているけど、それとはまた違う、この空気は――。

「ま、なんでも構わない。守護があるのならばあるで――」

神父が、またもや手を伸ばしてくる。
まるで見えない壁を押すように。
と、掌の周囲が、白く輝きだした。
力ずくで、周囲を取り巻く障壁のようなものを壊そうとしているのがわかる。
白い輝きは強く、強くなり。
そして――。

「うわ……っ」

弾け飛ぶように、神父の体は後ろにと押し戻された。

――いつでも、あなたを見守っていますから。

ふいに懐かしい声が耳元で聞こえたような気がした。

「光……明……」

知らず知らずのうちに口をついてその名が出てくる。
涙が零れ落ちた。

「……おのれ」

神父の顔が憎々しげに歪んだ。

「こうなれば――」

さらに強い力をぶつけてこようとするのがわかった。
だが。

悟空――。

声が聞こえた。
過去からではなく、現実に力強く呼ぶ声が。

「三……蔵……」

見上げる暗い夜空の彼方に、白い小さなものが見えた。
それが、急激に大きくなっていく。

そして。
バサリ、という羽音とともに三蔵が舞い降りてきた。

すごい。
綺麗―――。
純白の羽に、金色の髪。その存在自体が輝いているような姿。
まるでこの世のものではないかのよう。

体から力が抜ける。
三蔵が来てくれた。
それだけで、もう大丈夫な気がした。

なにか争う声が遠くから聞こえていたが、意味をなさない。
夢うつつな状態でそれを見ていた。
やがて走り去る神父の姿が見え。
それから、三蔵がこちらを向いた。
ドキン、と心臓が跳ね上がる。

深い紫の目―――。

久しぶりに見るその秀麗な顔。
だけど。

「や……」

壊れてしまいそうな心臓の鼓動で我に返る。

いまは―――。
いまはダメだ。
いま、三蔵に触られたら、もう――。

「……ね、がい……、来ない、で……」

必死に言葉を紡ぐ。
なのに、三蔵の手がこちらに向かって伸びてきた。

「や、だ……」

後ずさる。
拒絶するかのように、小さく丸まる。
だけど。
さっきまでの障壁は、最初からそこになかったかのようになにも反応せず。
すっと三蔵の手が触れるところまで伸びてくる。

「触るなっ!」

とっさに出た声は、自分でも驚くほどの鋭いもので。
三蔵は驚いたように少し固まった。
でも。

「なにも考えるな」
「……っ!」

よける間もなく素早く手首をつかまれた。
そのまま引っ張られる。

「や……っ」

抗おうとするが、腕の中に閉じ込められる。

「暴れるな」

間近で聞こえてくる声に、どうにかなってしまいそうになる。
どうにかなってしまえば、楽なのかもしれないけど。
でも。
こんなのは――。

「なにも考えるな、といってるだろうが」

そっと頬に手を添えられて、上を向かされた。
綺麗な紫の瞳が覗きこむようにこちらを見ている。

「ただ俺のことだけ考えていればいい」

ゆっくりとその顔が近づいてくる。

「……つっ」

首筋にチクリとした痛みが走る。
血を吸われたわけではない。
そんなのはわかっている。
でも。

「わかるか。これは俺が与えた熱だ。だから安心して、俺だけ見てろ」
「さ……ん……」

そんなことを言われて、理性はぐずぐずと溶けていく。

「いいこだ。少しだけ待ってろ」

ふわりと体が浮き上がる。
わかってる。
ちゃんとわかってるけど、いまは――。
そっと首に手を回してもたれかかる。

「三蔵……」

そして――。
三蔵にすべてを委ねた。


 4へ
 3へ
(パスワード要)