バレンタイン


仕事部屋を出た三蔵はふと足を止めた。そこはかとなく甘い匂いが漂っている。


「どうした?」

「……なんでもない」


後ろからついてくる悟浄の問いに素っ気なく答えて、三蔵はまた歩き出す。なんとなく面白がっているような雰囲気が伝わってくるが無視する。
たぶん『また構っているな』と思ったのに気づかれたのだろう。
構うことがダメだというわけではないのだが――。

甘い匂いは予想通りダイニングキッチンに近づくにつれ強くなっていく。
扉をくぐると。


「今度はどれがいいですか?」

「くぅもっ! くぅもやるっ!」


はしゃいだ姿が目に入ってきた。
三蔵の眉間にまた少し皺が寄りそうになるが。


「さんぞっ」


目敏く三蔵を見つけた悟空がガタンと椅子を揺らして立ち上がり、そのまま椅子から飛び降りるようにしてタカタカと近づいてきた。
満面の笑顔でぽふっと抱きついてくる。
それを抱きあげてやるとさらに嬉しそうな顔になった。

悟空の口の周りについているチョコレートを、取り出したハンカチで拭ってやっている三蔵は表情にはなにも変わったものは浮かんでいないが、雰囲気が柔らかい。


「お疲れさまでした」


どことなく苦笑したような声がかけられる。


「あぁ」


短く答え、ダイニングテーブルを見るとそこには小さな手鍋と苺やバナナなどが乗った皿があった。


「お。チョコフォンデュか」


三蔵ではなく悟浄が感嘆したような声をあげる。


「えぇ。よく知ってますね」


ちょっと意外そうな顔で八戒が言う。


「この間、女の子達に連れてかれた喫茶店にあったんだよ。けど、これは火を使ってないんだな」

「えぇ。一度あっためれば1時間くらい固まらないっていうチョコレートを通販で見つけまして。ちっちゃい子のそばで火を使うのは危ないですからね。あ、悟空、苺ですか?」


椅子に戻った悟空がうーっと手を伸ばして苺を取ろうとしている。それに気づいた八戒が苺を柄の長いフォークに刺してチョコレートにつけようとすると、ちょっとだけ唇を突き出して悟空が言った。


「くぅもやりたい」


拗ねている様子はたいへんに可愛らしい。


「じゃあ、一緒にやりましょう」


にこにこと笑いながら、八戒は悟空の手に添えて一緒に苺をチョコレートにくぐらす。


「なんだ、これ。スイス製? えらく張りこんだんじゃないか?」


はむはむと悟空が食べている横で、悟浄が空箱を取りあげて言う。


「だって今日はバレンタインデーですから」

「え? やっべぇ、三蔵の原稿に付き合ってて忘れてた!」


いまから女の子達に連絡がつくかなぁとか言ってる横で悟空がきょとんとした顔をする。


「ばれん……?」

「今日は好きな人にチョコをあげる日なんですよ」


悟空は食べてしまってもうなにも刺さっていないフォークと、手鍋のなかのチョコを見比べる。
それから。


「さんぞっ」


またもや勢いよく椅子を揺らし、悟空は向かいに座っている三蔵の方に前のめりになる。
危ない、と八戒が小さな体に手を添える。


「くぅもさんぞにチョコあげたい」


まっすぐ三蔵を見て悟空は言う。

あげる相手にそう言うのもなんなのだが――。

悟空にとってお願いをする相手はいつでも三蔵で、それは八戒や悟浄の方が容易に「うん」と言ってくれそうなときでも変わらない。
というか、三蔵以外の人にお願いをするということがそもそも頭にない、と言った方が良いかもしれない。
三蔵は微かに笑みを浮かべると、手を伸ばしてくしゃりと悟空の髪をかきまわした。


「それをひとつくれればいいだろ?」


そう言葉をかければ、悟空は笑顔を浮かべた。


「うんっ! さんぞ、どれがいい? 苺?」

「あぁ」


んしょ、と悟空が手を伸ばして苺をフォークに突き刺す。
はらはらと八戒が思わず手を出そうとするが、ぐっとこらえる。
あぶなっかしい手つきで悟空は苺をチョコにつけ、ぽたぽたとチョコを垂らしながらも三蔵の方に差し出した。


「はい」


三蔵が身を屈めるようにして口に入れると、ふにゃと嬉しそうな笑顔を見せる。


「あのね、くぅもっ。くぅも食べたいっ!」


そう言って三蔵にフォークを差し出す。
どうやら食べさせて欲しいらしい。というか、三蔵からもチョコが欲しいのだろう。


「どれがいい?」

「さんぞと一緒っ!」


そんな会話を交わしているふたりの横で。


「仲が良いことで……」


なんだか脱力したような悟浄の声が響いた。