その瞳がもたらすものすべてに(2)


 本堂に三蔵が読経する声が響いていた。
 その傍に座って、耳を傾ける。言っていることは全然わかんないけど、でも、三蔵が読経する声を聞くのは好きだと思った。
 一切の迷いを打ち砕くような曇りのない澄んだ声。
 そう言えば、拾われてからだいぶ経ったけど、こんな近くで三蔵が読経するのを聞いたのは初めてかもしれなかった。
 それも無理ないかもしれないけど。
 何のかんの言っても、三蔵は「三蔵法師さま」だ。読経をするとしたら、それは本堂以外ではありえない。
 そしてそんな場所に、俺みたいな「妖怪風情」がおいそれと近づけるはずがない。
 今回も、ここに俺をあげることについてはかなりの悶着があったらしい。
 でも、三蔵が押し通した。
 怪我をしてから一週間ちょっとが過ぎていた。傷は驚くほどの速さで直っているらしいのだが、まだ目の包帯は外せないでいた。
 三蔵の声が聞こえても、その気配はわかっても、姿が見えないということは、予想以上に怖いことだった。
 だって、感覚だけで確かな証がない。
 だから最初の頃は名前を呼んで、いつでも触れていた。
 三蔵は何も言わなかった。ただ黙って傍にいてくれた。
 だけど、二、三日もすると、入れ替わり立ち替わり僧達が訪ねてくるようになった。三蔵がずっと私室に閉じこもりきりなので、寺院の業務に支障をきたしているらしかった。
 俺は忙しい。
 でも、三蔵の答えはそれだけ。
 それは凄く嬉しかった。なんだが、とても大事に思われているみたいだ。
 けれど、たぶんそれは、いつもとは違う俺の様子を心配しているだけ。大切に思うのとは少し違うと思う。
 というのも、あまりにもにべもない答えに、皆、困りきっているみたいだったから、「大丈夫だから、お仕事、して?」と三蔵に声をかけた。
 三蔵の傍に少しでも長くいられれば、それで良かった。
 なのに、今は独り占めにしている。それが許されないことは、わかっていた。
 この人は誰のものにもならない。そんなことは、最初からわかっていた。
 三蔵が溜息をついたのが聞こえてきた。そして、触れていた温もりが遠くなった。立ち上がり、離れていく気配。
 胸が痛んだ。
「……泣くだろうが」
 だけど、すぐに抱きしめられた。
「そんな風に泣かれたら、仕事になんねぇんだよ」
 そう言われて、初めて泣いていることに気付いた。
 びっくりした。
 こんなことで泣くなんて。三蔵が永遠にいなくなるわけではないのに。
 目が見えないというだけで、こんなにも心が弱くなるものなんだろうか。
 それは、一面の真実。怖いと感じている心は本当だから。
 でも、本当はたぶん違うとわかっていた。心の奥底の気付きたくない想いに気付いてしまったから。
 だけど、そのことは考えたくなかった。
 結局、ジィちゃん――この寺院で唯一三蔵が少し苦手意識を持っている老僧正がやってきて、俺を連れて仕事をすればいいだろうと言われた。
 三蔵は少し考え、了承した。
 それで、今、俺はこの本堂にいた。
 三蔵の読経が終わり、ようやく長かった法事とやらが終わったようだった。
 三蔵が立ち上がる気配がした。一緒に立ち上がろうとして……。
「どうした?」
 三蔵が声をかけてきた。
「足、痺れて立てない……」
 ずっと慣れない正座なんかしてたせいだ。
「別に立たなくてもいい」
 三蔵はそう言うと、その腕に俺を抱きかかえた。
「三蔵、それでも痛いって」
 もうこの体勢で運ばれるのは慣れていた。
 さすがに最初のうちと、この本堂に来るときはちょっと抵抗したけど。
 別に見えないだけで、歩けないわけでない。だから三蔵が手を引いてくれればいいのだけど。
 面倒なんだそうだ。段差とか、足元が大丈夫かとか、いちいちチェックしながら歩くより、抱きかかえてしまった方が楽だからと言われた。
 最初に三蔵が俺を抱きかかえて現れたとき、皆、口には出さなかったけど、凄い衝撃を受けたようだ。一瞬で、場の雰囲気が変わった。
 そして、今もそうだ。
 たぶん、いろいろと陰で言われているんだろうと思う。
 でも、もういいや、と思った。
 どうせすぐに関係なくなる。
 だから、今だけはこの温もりを少しでも長く感じていたかった。

 そして、ようやく包帯を外せる日がきた。
 ゆっくりと目を開ける。
 柔らかな日差しのなか、少し心配そうにこちらを見つめる三蔵の顔があった。
 あぁ。三蔵だ。
 金色の髪が光に淡く縁取られている。凄く綺麗。
「見えるか?」
 その言葉に頷いて、三蔵の方に手を伸ばした。
「大好き、三蔵」
 呟いて額を三蔵の肩に乗せた。
 大好きだよ、三蔵。
 だから。
 だから、もう、一緒にはいられない。